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日本史についての雑文その40  産業構造の変革
もちろん、これを実現することは容易なことではありませんし、実現までには多大な時間が必要ですから、方法論をこれだけに絞るというのは現実的政策ではありません。
ですから吉宗はこの後も基本的には緊縮財政と米価調節を改革政策のメインに据えつつ、機会を捉えては年貢率アップ、新田開墾、貨幣改鋳、貿易制限など、財政再建のために有効と考えられる手も全て適切なタイミングで打っています。非常に現実的な感覚をもった優れた政治家であったと思います。

ただ、その後の大きな歴史の流れを見渡す限り、産業構造の大変革がこの吉宗の改革から始まっているのは明白であり、吉宗が享保の改革の後期においては意図して産業構造を変えていこうとしたことも明白だといえます。吉宗が長期的に改革の本命とし、財政再建の切り札としていたのはこの産業構造の変革だったと思われるのです。

ただ、それが後に吉宗の意図したように幕府財政再建に繋がったかというと、確かに幕府財政はこの後再建へと向かっていったのですが、後にこの産業構造の変革が社会構造の変革に繋がったことによって逆に幕府の存立基盤も揺るがすことになったのは皮肉なことだと思います。
しかし、だからといって吉宗が愚かな政治家であったかというとそんなことはないわけで、この吉宗の始めた産業改革によって日本という国家自体は色々な意味で間違いなく豊かに成熟していったのであり、それが幕藩国家文明に変わる新たな文明を生み出す養分となっていったのです。
そして吉宗の描いた「殖産興業によって貿易を盛んにして国家を富ます」という大構想は、形を変えてより開放的な形で幕末維新以後、明治になって成就することになるのです。むしろ、この吉宗の殖産興業政策もまた、明治に繋がる新しい文明の黎明そのものであったと捉えるべきなのかもしれません。もちろん吉宗にはそういう意識は無かったでしょうけれど。
そういう意味で間違いなく吉宗は時代を変えるきっかけとなった政治家なのであり、それによって幕藩体制の終焉を招いたとしても、それは単に幕藩体制自体が時代の変化に対応出来なかったというだけのことであり、吉宗の評価を下げるようなものではないと思います。

むしろ問題は、そうした吉宗の先進的な部分よりも、当座の策として打ち出していた現実的政策のほうがクローズアップされ、緊縮財政と米依存型経済政策こそが吉宗の主要政策であると後代の幕府当局者によって誤解されたことです。
吉宗政権後期に吉宗に直接伺候していた田沼意次あたりまでは吉宗の真意を理解した政策を進め得たのですが、松平定信など、吉宗の実態を知らず吉宗を神格化し偶像化した世代が実権を握るようになってからは、吉宗の真意を誤解した緊縮財政や米経済至上主義的政策が打ち出されるようになり、社会の動きと齟齬を生じるようになっていき、これが幕府の現実対応能力を次第に奪っていったのです。
ただ、そのような結末に至るのはまだまだだいぶ先のことであり、吉宗もそのような結末をこの時点では予想もしていません。吉宗はただひたすら財政再建のために産業構造の変革が必要であると考えて、この時点で打つべき手を打っていっただけのことです。またその影響も、吉宗の時代はまだまだ影響は微々たるもので、吉宗はこうした変化の種を蒔いただけのことでした。

まず吉宗は適地適産の産業政策推進のために、全国的な物品調査を行い、ちょっとした博覧会のようなものも催したりしました。このように各藩単位ではなく、藩の垣根を乗り越えて全国規模のトータルの経済政策や産業政策を企図したのです。
幕藩国家修正期の最初に保科正之が中央集権化路線を放棄して自治連合国家を目指して以来、基本的に幕府は天領のみを支配し、各大名の藩領の政治には不介入が原則でした。
大名は将軍の命令には従いますが、藩は幕府からは独立した法人で、幕府の支配下にあったわけではないのです。ですから、経済政策や産業政策、財政も幕府と各藩とは、それぞれ独立して勝手にやっていたのです。
しかし、幕府財政が悪化して天領からの年貢収入だけではやっていけなくなりました。それは各藩も同じことでした。経済規模が大きくなってきたことで、自然に天領経済と藩領経済も市場経済を通して連動してくるのです。それで吉宗も上米の制を実施したり、諸大名に蔵米をさせたりして、経済政策において諸大名を巻き込むようになっていったのです。
しかも米だけに頼る産業政策では限界があることも分かりました。もっと多くの産物を作る必要が生じてきたのです。しかし、地域によっては作れないものもありますし、特定地域でしか産出しないものもあります。
こうなってくると、天領だとか藩領だとか区別して考えるのは非効率というもので、藩の垣根を取り払って全国的な産業振興プランをトータルな視点で立案し実行していく必要が生じてくるのです。
こうして幕府がリードして各藩に殖産興業に当たらせるという形が出来上がり、これが未開拓の産業を発掘させ、新たな産業のフロンティアとなっていくのです。吉宗の時代はこれらは種が蒔かれただけですが、吉宗以降の時代において、規模の経済は頭打ちとなっていた日本の経済や産業が質的な意味で新しい成長を遂げていくことになるのです。
こうした各地の殖産興業を奨励するために吉宗は1735年には田畑勝手作禁止令を緩和する措置を行いました。これはつまり米作至上主義政策の見直し措置であり、それまでは各農民の手持ちの耕作地では基本的には米作を優先する決まりになっていたのですが、それを米以外の野菜や商品作物を自由に栽培してもいいことにしたのです。その代わりにそれらにも租税をかけることになり、これによって幕府財政の助けにもなりました。
この措置は商業を大きく発展させ、農業の商業化を促進させ、後に農村共同体の大きな変質を進めていくことになります。

そして、こうした藩の垣根を取り払った全国的経済プランの立案は、幕藩国家修正期初期に一度凍結された中央集権国家への志向を再び甦らせることとなったのです。そういう意味ではまさに幕藩国家確立期前期、つまり家康時代への「原点回帰」であったのです。ただ、これが政治的な動きにまでなっていくのは、これよりまだだいぶ先のことになりますが。
そしてこの原点回帰、つまり中央集権化は、見てきたように時代の流れにも見合ったものでした。ただ、その中心が幕府になるという点において無理があったのです。それは何故かというと、幕府は先述のように「武士生活の矛盾」を抱えていたからです。
ただ、武士階級の個々の意識としては、このような全国的システムの構築は武士道の内容を変えていく作用はありました。これによって、武士が忠義を尽くすべき対象が各藩の大名家や幕府ではなく、天下国家そのものという意識が急速に浸透していくこととなったのです。ここにおいて「公共のための忠」が武士道のスタンダードになっていくのです。
それは、やがて次第にその「天下国家」の求心力としてニーズが高まってくる尊皇思想と合体して、幕末動乱に際しての大きなエネルギーになっていくのです。
そしてまた、このような政治の公共性の理念は、近代デモクラシーを準備する重要な思想となり、明治の自由民権運動に連なっていくことになるのです。

そしてまた吉宗は新たなフロンティアとして、輸入代替という政策も打ち出しました。
輸入代替とは、既に輸入している品目について国内で生産できる態勢を整えることによって輸入量を減らし、逆に輸出品目としてしまうことによって国際収支を黒字に転換して貨幣の海外流出を防止しようという産業政策です。
これを行うためにはまず海外の産物について知識を深めなければなりません。早くから吉宗はそうした構想を持っており、1720年にはキリスト教関係以外の洋書輸入の禁止措置を緩和しています。また1726年に西洋馬術を習ったり西洋音楽を聴いたり、1729年には象を江戸に連れてきたりもしていますが、これらも海外の物産への興味を喚起するためのパフォーマンスであったと見るべきでしょう。
1739年には青木昆陽を登用し、オランダ語を学習させたり甘藷、つまりサツマイモを栽培させたりしていますし、朝鮮での情報収集活動の結果、朝鮮人参の栽培にも成功しています。1745年にはオランダ語通詞にオランダの書物を読むことを許可しています。もちろん最大輸入品目であった絹織物の輸入代替のために養蚕も導入されました。
これらは吉宗の時代には小さな一歩を踏み出したものばかりでしたが、各地の殖産興業も輸入代替も、海外知識の習得、すなわち蘭学も、吉宗以降の時代に着実に発展していくことになるのです。

こうした吉宗の後期の施策を身近に見ていたのが若き日の田沼意次でありました。例えば青木昆陽が登用された1739年には意次は21歳であり、既に吉宗の近習として仕え、この後1751年の吉宗死去まで12年間にわたって吉宗の政治をつぶさに観察していったのです。
吉宗の構想は後に意次によって引き継がれることになります。いや、正確には、吉宗の構想の発展により変質した社会に対して、吉宗の意図を引き継いで格闘を挑んだのが田沼意次ということになりますが、それはもう少し後の話となります。
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