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日本史についての雑文その41  庶民の学問
この1725年から1750年ぐらいにかけての幕藩国家改革期後期は、1751年の徳川吉宗の死去によって幕が引かれることとなりますが、この時代は様々な文化や学問が新しく出現した新文明の黎明期後期の時代でもありました。
その下地としては改革期前期、すなわち黎明期前期においての荻生徂徠の徂徠学の出現によって江戸儒学の発達が頂点に達し、自由な発想で学問に取り組める環境が整ったことがあります。また徂徠学の精密な訓古学的アプローチの手法は他の学問にも応用されていきました。

例えばこの時代においては徂徠学の手法を国文学に応用することによって荷田春満によって国学が確立されました。これは、あまりに古代シナに傾倒する徂徠学への一種のアンチテーゼとして、日本古来に何らかの理想を見出そうという欲求から生まれてきた学問であり、それでいてその方法論は徂徠学の手法を大いに参考にしたものです。
この国学が後に本居宣長によって大成されて、その儒学批判論からナショナリズムが形成されるきっかけになっていくことになるのですが、この黎明期後期の時代における国学はそういう政治思想に繋がるような要素は全く無く、あくまでも単なる古い和歌を訓古学的に研究する歌学だったのです。
ですから、この黎明期後期においては社会に何ら影響を与えていませんし、そもそも非常にマイナーな存在であり、その存在すら一般の人々は知ることはありませんでした。ただ単に国学が生まれたということに意義がある時代といっていいでしょう。

また、庶民階層における徂徠学や儒学の普及という下地のあったところに、吉宗の治世においては庶民向けに多くの法令が出され、また庶民の側からも目安箱への投書や百姓一揆の訴状など文書を読み書きする機会も増え、また吉宗の殖産興業政策により、農民も今までの単に米を作っていればいい生活ではなくなり、他の様々な農業や商業の新しい知識を身につける必要が出てきたため、識字率を高める必要が生じてきました。
そのためにこの時代から寺子屋が普及するようになり庶民教育が行われるようになっていったのです。寺子屋が顕著に増加するようになるのはそうした殖産興業が本格化する田沼時代以降なのですが、この吉宗時代から普及は始まったと見ていいでしょう。

こうして庶民の間で識字率が上がってくると庶民の学問熱が高まってきました。徂徠学以降の儒学は自由で実用的なものになっていましたから庶民にもとっつき易いものになっていましたが、その儒学のエッセンスも取り入れつつ、吉宗時代に強調された倹約と勤勉の美徳を加えて庶民向けに簡略化した教えが出現することにもなりました。
それが1729年に石田梅岩が唱えた心学で、人間の自然な生き方とは、勤労によって生活を営み、財貨を無駄に消失しないという倹約の精神によるものだとした教えです。
これは商業活動を肯定する思想であり、これもまた、何も生産することのない武士生活の矛盾を解消するために商業の自由の抑制をも説いた徂徠学とはある意味では対極に位置する思想だといえるでしょう。しかしこれもまた、その理論の重要な部分を徂徠学などの儒学のエッセンスを取り入れているのです。
この心学は江戸時代の庶民の精神に合致したもので、また、殖産興業で国富を拡大しようとしていた吉宗の方針の下の時代精神とも合致したものでした。
ただ梅岩は組織者というよりは求道者的な人物で、心学を広めることにあまり熱心ではなかったので、梅岩が1744年に亡くなった時点ではそれほど心学は広く知られてはいませんでした。つまり、この黎明期後期においては心学もまた、それは成立しただけであり、まだ多くの人には知られていなかったのです。
心学が広く普及するのは、次の時代において優秀な組織者であった手島堵庵によってであり、吉宗以後、田沼時代を経て幕末、そして明治へと至る勤勉と倹約によって殖産興業を進めて豊かさを追求していく時代における時代精神として心学は日本人に受容され、大いに庶民の間に普及し、日本人の精神の中核をなすものとして現在にも引き継がれています。
この勤勉と倹約の精神が、この後の時代の産業構造や社会構造の変革を推進することとなり、それが19世紀前半の経済発展を生み、それが大衆社会的状況を生んでそのエネルギーが幕末維新に繋がっていくのであり、またこの勤勉と倹約の精神は明治以降の日本の殖産興業も支えていくことになるのです。
だが、それは後の時代の話であり、この黎明期後期、つまり改革期後期においては、心学は生まれたばかりでまだ社会に大きな影響は与えていないのです。

またその一方、この吉宗時代においては庶民の識字率が上がったことによって「読本」という大衆小説が流行するようになりました。これは元禄文化の頃の井原西鶴などの小説とは異質なもので、富裕な商人や町人向けの読み物ではなく、本当に底辺の庶民にウケるような内容のものでした。
識字率の裾野が広がって下がってくることによって、文学の嗜好も明らかに変わってきたのであり、それにつれて絵画なども含め、元禄の頃の「町人文化」とは異質な「庶民文化」「大衆文化」といえるものが立ち現れてくるようになったのです。これが後に田沼時代に大いに発展し、更に後に化政文化として花開くのです。
また、吉宗の殖産興業政策の影響で、各地の産物などを把握するために本草学が発達しました。また前述のように吉宗の肝煎りで蘭学もこの時代に第一歩を歩みだしており、後にこれらが刺激し合って科学的な思考を実践していく人達が現れるようになり、それが新たな文明の扉を開けていく力になっていくのです。

これらの、新たな時代を切り開いていく学問や文化が本格的に動き出すのはもう少し後の時代ですが、この幕藩国家改革期後期、すなわち新文明の黎明期後期において、それらの端緒が生じたということは、逆に考えれば、この時期の改革を担った精神が新たな時代や文明に繋がるに足るような正当なものであったという意味なのでしょう。
その精神とは、この吉宗の時代で言えば、やはり心学に象徴されるような勤勉と倹約という美徳なのだということであり、それが幕藩国家の次の新しい文明への移行をスムーズにしたともいえるのです。
つまり、この改革期、つまり黎明期においてどのような時代精神を生み出すかによって、次の文明サイクルへの移行が上手くいくかどうかが分かれてくるということです。

さて、1751年に徳川吉宗が死去した時点で吉宗の改革は終了し、改革期後期は終わりを告げます。
この改革期後期という時代は、改革の方向性が定まってきて一気に改革を進めていく時代ですが、改革の結果として社会の変質が始まる時代でもあるといえます。
別の言い方をすれば、改革期と同時進行する黎明期において生じる新たな文明の息吹が社会の変質を促進するのだともいえます。
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