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日本史についての雑文その43  田沼時代
この幕藩国家の変質期前期、そして新文明の胎動期前期にあたるのが、だいたい1750年から1775年の期間ですが、この時代は政策的には吉宗の享保の改革の延長線上だといえます。
吉宗の目指した財政再建は、そのための改革の手は打たれたものの、その効果はまだ十分には上がっていない状態で吉宗はこの世を去りましたから、吉宗の死後にその後継者たちがその路線を引き継いでいったのです。
その路線とはすなわち殖産興業政策であり、その最も忠実な政策実行者が田沼意次でした。

意次は、紀州藩の足軽であった父親が吉宗によって旗本に登用された際に吉宗の長男の家重の小姓となり、家重が将軍となった1745年には意次は26歳で将軍の側近となり、大御所吉宗が死去した1751年には32歳であり、吉宗の残した政策を引き継いで発展させていくべき新世代の一人としてこの後頭角を現してくることになります。
1758年には39歳にして大名に取り立てられ幕政の枢要に参与することとなり、1767年には48歳で側用人に出世し幕政の実権を握るようになります。この時点までに殖産興業政策は次第に成果を上げてくるようになり、商品作物や海産物などを海外へ輸出して金銀の海外流出にストップをかけ、逆に海外から金銀を輸入できるようになっていました。
それにつれて幕府財政も安定してきたので、1765年以降は倹約令を止めて積極財政政策に転じ、秋田の銅山を幕府直轄として銅を増産したり、貨幣改鋳を行い景気を刺激したりする政策をとるようになりました。
こうした幕政の変遷に意次は常に関与し続けたのであり、次第にその中心人物となっていったのです。そしてとうとう1772年、53歳にして老中に就任したのです。まさに意次はこの変質期前期において吉宗の殖産興業路線の実行のために人生を生きてきたといえるでしょう。
意次はこの後、1786年に罷免されるまで14年間老中職にあり幕政を指導しました。側用人時代も含めると19年間の長きにわたり幕政の中心にいたことになります。

そして意次は老中になってから吉宗路線を更に発展させて重商主義政策を打ち出します。
すなわち、農村からの年貢収入だけではなく、殖産興業政策の結果発達してきた商業資本にも目をつけ、特定産物を専売制・会所制にして幕府がその取り扱いをする専売商人を指定して優遇する替わりに、その専売商人から冥加金や運上金を徴収したのです。
そうして幕府の収入を増やした上で、幕府の各部局に予算制度を導入し、支出の拡大を防ぎました。これは闇雲に倹約を命じるのではなく、基本的にゼロシーリングをとりながら部局ごとに差別化を図ったのです。大奥や将軍の身辺費用については予算を縮小し、殖産興業に割り当てられる民政部門の予算は拡大させ、複数部局で持ち合い予算とするようにして、大規模開発事業への財政支出に耐えられるようにしたのです。
そうした幕府の財政支出に加えて更に、優遇措置によって発達した商業資本からの出資を募り、町人出資の農地開発などの新事業を立ち上げ、更に殖産興業政策を推し進めていきました。
そうして全国的に各種産業を育成し、長崎貿易を奨励してそれら産物を輸出し金銀を海外から輸入してとうとう貿易黒字を達成し、蘭学を推奨して更に海外から新技術の導入も図りました。

こうした一連の重商主義的プロジェクトのプランナーとして意次に登用されていたのが平賀源内でした。
源内は高松藩の足軽身分の生まれで、1752年、24歳の時に長崎に遊学し本草学や蘭学などを学び、その後家督を放棄して学問の道に入り、更に鉱山の採掘や精錬の技術を習得し、物産博覧会などもたびたび催すようになり、1760年頃には田沼意次の信頼を得るようになり、その後、石綿を開発したり、各地の鉱山や炭鉱の開発指導や、荒川通船工事の指導など、産業起業的活動に奔走することになりました。まさにこの時代の申し子といってもいい人物でしょう。
また源内はこうした起業的活動以外にも多彩な才能を発揮しました。オランダ博物学にも関心を持ち、蘭学者グループとも親交を深め、洋画の技法を伝えたりエレキテルを作成したりもしています。
こうした蘭学の興隆も、改革期後期において吉宗が進めた政策の帰結であり、こうした面でもこの時代は吉宗時代の延長線上であるといえます。
そうした中で、源内とも親交のあった杉田玄白や前野良沢らの手によって1774年に「解体新書」が翻訳出版され、これによりこの後、蘭学は大きく発展していくことになるのです。

また源内は、吉宗時代の終わり頃から盛んとなっていた読本などの大衆文芸の世界でもオピニオンリーダーとして数多くの講義本や小説、戯曲などを手がけ、その発展に寄与しました。
源内らの活躍により、最初は上方に起こった大衆文芸も江戸でも盛んになり、1770年代に入ると、江戸で絵草子や黄表紙などのような絵入りの読み物が発売されるようになり、これが後に大ブームとなり、更にこれに使われた版画技術の発達が浮世絵ブームを生み出すことになるのです。

このように、蘭学にしても大衆文芸にしても絵画にしても、この時代は過渡期の時代ではあったのですが、源内はそれらの発展にも寄与し、19世紀になってからこれらが大きく発展する基礎作りにも関与しました。こういう側面でも、やはり源内はこの時代を象徴する人物であったと言っていいでしょう。
すなわち、蘭学や大衆文化のようなものは、この前の黎明期において発生したものですが、この胎動期前期において源内などが中心になって裾野をどんどん広げていったのであり、その結果として1774年の「解体新書」の出版や、読本や黄表紙の出現があるのであり、この後の胎動期後期において、これらは飛躍的に発展し、社会に影響を与える存在へと大きく育っていくことになるのです。

また、こうした源内に代表されるような起業的活動を支える思想として、勤勉と倹約によって富を蓄積することを美徳とする心学は、まさにこの時代の時代精神となったのであり、この胎動期前期において手島堵庵によって大いに広められることになったのです。
そしてそうした心学の精神の農村への普及によって、農村にも富を求める欲求が広く生じるようになり、それが農業の商業化を促進していったのです。
この農業の商業化、農村における自作経営の普及や、富の蓄積、そしてその結果としての都市の肥大化も、新しい文明の胎動期前期を象徴する現象でもあったのです。
そしてこうした動きが相互作用して、次の胎動期後期においては問屋制家内工業が出現して、新文明はその姿を現してくることになるのです。

また、この胎動期前期における国学は、この時代に賀茂真淵の「万葉集」研究と本居宣長の「源氏物語」研究によって広く知られるようになり、一部の研究者のものではなく、弟子入りする者なども増えて広く普及するようにはなっていきました。
確かにこれはこれで文化的な国粋主義的運動だったのでしょうが、まだ後のように政治的なナショナリズムを生み出すような要素は生じておらず、まだまだあくまで歌学の域にありました。
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