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日本史についての雑文その44  人口減少
こうして源内のような人物を駆使して田沼意次の殖産興業政策や貿易振興政策はこの時代に着々と進められ、吉宗時代からの宿願であった、各藩の垣根を取り払った日本全域の経済活性化が達成されるようになりました。
しかし、こうして全国的な一つの経済圏が機能するようになってくると困ったことが起きてきました。日本の経済圏は一つにまとまろうとしてきたのに、相変わらず通貨が東日本の金本位制と西日本の銀本位制の2つの通貨制度に分かれたままだったので、取引上の不都合が多く生じるようになってきたのです。また幕府による経済政策にも支障が生じるようになってきました。

こうなると通貨制度の一元化は避けて通れない問題となってきました。意次はこの問題にも果敢に取り組み、まず1765年に明和五匁銀という銀貨を発行しました。
これ以前の銀貨は秤量貨幣というもので、両替時に秤で重さを計っていたのですが、この明和五匁銀が12枚で銀60匁に相当し、金1両と交換出来ると規定したのです。つまり、今までは全く別建てであった金と銀がこの明和五匁銀を介して連動することになったのです。
更に1772年には意次は南鐐二朱銀という新しい通貨を作りました。これは銀貨でありながら「二朱」という金貨の単位が刻印されたもので、1分は4朱であり、1両は4分でしたから、1両は16朱であり、この南鐐二朱銀は2朱の価値があると規定されましたから、この通貨を8枚持っていけば1両金貨と交換出来るということになりました。
銀貨でありながら金貨の単位が刻印され、金貨の両替にそのまま使うことが出来たという点が画期的で、これは日本最初の計数貨幣でした。
この南鐐二朱銀の発行によって銀貨は金貨の補助貨幣となり、日本の通貨制度は金に一本化されて、金本位制に移行していったのです。
ただ、これが完全な形で実現するのは明治以後になってからのことになりますが、この田沼時代以降、実質的にはほぼ金本位制への移行が始まっていたといえます。
この南鐐二朱銀は意次失脚後に松平定信によって一旦廃止されますが、その後また復活し、金本位制への移行を支えることとなりました。
こうして通貨の一元化も進み、またこれら新貨幣が幕府による財政支出にも充てられ各種開発事業にも巨額の投資が行われて、全国規模の経済活性化にも弾みがつき、そうした中で成長した商業資本からの冥加金や貿易黒字によって、とうとう幕府財政は元禄バブル崩壊以前の水準にまで回復したのです。

つまりこの時代は改革期から続いた改革が実を結び着実に実績を挙げていった時代であり、修正期のような目覚しい高度成長は無いものの、おそらく300年の文明サイクルの中で最も政治的経済的に安定し成熟した時代だといえるでしょう。
この時代においてこの幕藩国家文明はある意味では頂点を迎え、完成されたのだと言ってもいいでしょう。
しかし、そういった安定と成熟の水面下では、この変質期前期においても着々と社会の変質、そして新しい文明の胎動は進行していったのです。

1600年に江戸幕府が開府して以降、17世紀を通して日本の人口は増加し続けて、3千万人を突破しました。これは確立期と修正期の高度成長時代と重なっています。
そして当時の日本列島の生産力に見合った人口収容能力の上限がこの3千万人程度であったので、18世紀に入ってから人口増加は止まり、逆に人口は減少傾向に入ります。ちょうど元禄バブルが崩壊した頃です。
元禄バブル崩壊の原因となった経済失速の一因は、人口が許容量を超えたこともあるのかもしれません。人口が許容量限界まで増えたら社会混乱が起きて死亡率を高めて人口を抑制しようとする作用が働くからです。元禄末期の経済混乱は人口論的には、起こるべくして起こったものだったのかもしれません。
人口を劇的に減少させる社会混乱の最たるものといえば戦争と飢饉です。人口増加が放置されていれば、これらが頻発するようになり生活水準は最低限のレベルにまで落ち込み社会は停滞します。普通はそうならないように自動的に適度に人口が減るように予防的に人口抑制措置が取られることになります。
予防的な人口抑制措置とは、つまり出生数を減らすということであり、晩婚化と婚姻率低下、既婚女性の少産化ということになります。
こういう措置が政府の命令で為されるということは日本の歴史においては例は無く、この江戸時代中期においてもこれらが幕府の命令でなされるということはありませんでした。これらは自然の成り行きでなされていったのであり、これに加えて何度かの飢饉で更に人口は減少していったのです。

飢饉とは食料の不作によって起こるのですが、食料の不作はだいたい気候不順が原因です。
18世紀半ばから19世紀初頭にかけては地球全体が小氷期に入っており、作物は不作が続いていました。こういう気象条件が飢饉の原因と見られがちですが、気象条件だけで飢饉が起きるわけではありません。何故なら17世紀もまた小氷期の時代だったのですが、この時期の日本においては飢饉によって人口が減少するようなことはなく、順調に人口は増加し続けたからです。
つまり、18世紀において飢饉が発生するようになったのは、人口が許容量ギリギリにまで増えていたために気候不順による作物不足のショックを吸収しきれなかったことにこそ原因があるのです。
ですから飢饉の連鎖を回避するためには自然に人口が抑制されるような措置が取られる必要があったのであり、18世紀後半の社会はそうした措置が取られていくようになったのでした。それでも後に天明大飢饉を防ぐことは出来なかったわけですが、これについては後で触れます。
ちなみにこの18世紀後半から19世紀初頭にかけての小氷期による気候不順が、新大陸ではアメリカ独立戦争を起こし、ヨーロッパではフランス革命からナポレオン戦争へ至る流れを作り、そうした戦乱の中で産業革命が進展し、帝国主義時代へと繋がっていくのです。この波が19世紀半ばに日本にもやってくることになります。
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