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日本史についての雑文その45  新しい文明システム
18世紀後半の幕藩国家変質期の日本においては、それに先立つ18世紀前半の改革期で吉宗が敷いた殖産興業路線が押し進められた結果、農村において米以外の多くの商品作物が作られるようになりました。
それによってこの1750年から1775年の変質期前期において農業が商業と直結するようになり、農業が商業化したのです。つまり農村が単に年貢を納めるための生産地ではなくなり、商業において取引される商品の原料供給地となったのです。

つまり農家は単に米を作る農家ではなく、小作農などを労働力として雇い商品作物を生産し流通経路へと供給する経営者へと変質していくのです。
こうした農村の自作経営で大きな利潤を上げる階層が農村において現れて「富農」と呼ばれるようになるのは天明大飢饉が収まった後の1790年代で変質期後期にあたりますが、この変質期前期はそこへ至る過渡期であり、そうした「富農」が育ってくる過程において農業がどんどん投機的になってきて、経営として成功する者と失敗する者とが次第に分化して、成功した者は富んでいき、失敗した者は借金を背負い土地を手放し小作農に転落したり、奉公人や流れ者となって都市に流入してくるようになった時代なのです。
こうして農村では自作農に富が蓄積されるようになり豊かになった反面、小作農が増え、中には耕作する者がいなくなって荒れ果てた土地なども出てくるようにもなりました。
また農村で生産される作物は、綿、繭、藍、紅花、菜種、楮など、生活加工品の原料作物を中心に多彩になりました。
そして一方、都市はそうした農村での競争に敗れた階層の人材を取り込んで肥大化していき、一大消費市場として発達していったのです。こうした都市住人を顧客として商業とそれに原料作物を供給する農家の自作経営がますます発展していくことになりました。
また、この変質期前期から問屋制家内工業や工場制手工業の形式も一部では見られるようになってきました。それらが顕著な形で現れてくるのは変質期後期以降になってからですが、変質期前期はそれに至る過渡期で、まだそうした変化が社会に大きな影響を及ぼさず、ただ水面下で進行していっているという時代だったのです。

そして、こうした農村の自作経営の多角化や都市住人の増加は、女性が非農業活動に従事する機会を増やし、女性は稼ぎ手として重要になり、その結果、女性の晩婚化や結婚後の出産数の低下に繋がりました。
経済発展による食生活の改善や医学の発達などの生活水準の上昇によって死亡率が下がり、特に子供の死亡率が下がったので多くの子供を産む必要が無くなったのも出産数減少の一因でもあります。
このように、変質期前期を通して進行した社会の変質は、自動的な人口抑制システムの発動を後押しするような作用も発揮したのです。
また、この社会の変質によって農村が利益追求に走り主食の米作りを疎かにしたり、荒れた農地を増やしたりしたことや、都市人口が増えて何も生産せず消費するだけの階層が増えたことなども、飢饉に対する抵抗力を下げていくことになったのです。
こうして飢饉によって人口が更に減少する可能性の高い社会構造になっていったことも事実であり、この変質期前期の社会変質は、人口抑制に向かう形の変質でありました。

しかし、それだけでこの時代の変質というものを説明するのは無理があるのであって、大戦争や大天災によって大幅に人口が激減するということは有り得ても、そもそも人口抑制のみに向かう人類社会の中長期的変化の方向性というものはあり得ないのであって、人類というものは基本的には結局は人口増加を志向する存在なのです。
人口抑制のベクトルが働くとしてもそれは一時的かつ表面的な現象であり、それは単に、更なる人口増加のための回り道に過ぎないのです。

17世紀初頭に確立された幕藩国家体制における人口許容量は3千万人だったわけです。17世紀初頭には1千5百万人ほどの人口だったわけですが、百年で倍増し17世紀末には許容量まで達したのです。
つまり幕藩国家という体制は実はここで一旦その目標値を達成し、同時にまた一旦行き詰っているのです。普通に考えれば、この後は人口が減っていって、役目を終えた文明は没落していく運命にあります。
しかし文明はそれでいいとしても、その中で生きている人間には生存本能というものがあります。人間というものは常に増加しようという本能があるのです。
つまり人口というものは基本的には増加傾向を持っているのです。一時的には減少傾向を見せたとしても、必ず再び増えようとするのです。それが人間の本能ですから。
幕藩国家という社会体制下で収容可能な人口が3千万人で、それに達したからといって大人しく減少傾向に甘んじるということはないわけです。一旦は減少傾向に入りながら、そうした中で、更に収容可能な人数の多い新たな社会体制を備えた新しい文明を生み出そうとするものなのです。
そうして生まれた新たな社会システムの下で再び人口は増加し始め、人口が増えるにつれて新しい文明は次第に育っていき、とうとう人口が幕藩国家の許容量に再び達した時、今度は減少傾向には入らずに、幕藩国家という殻を食い破り新しい文明はその姿を現すのです。それがつまり明治維新というものであったのではないでしょうか。
古い文明から新しい文明への移り変わりというものがこういうものだとするならば、確立期から修正期にかけての100年というものが文明の本来の姿なのであり、修正期の終わりで一旦行き詰るのが常態なのだといえるでしょう。この文明を成り立たせる制度に真に相性のいい文明スタイルが通用するのはこの修正期までなのです。
なるほど家康のような天才政治家にして100年の計しかなし得なかったのはこういうわけだったのです。本来の文明の寿命が100年なのであれば、家康とてもそれ以上先までは見通せるはずもないわけです。
ところが人間の増加本能というものが文明の限界を超えることを望み、修正期末の行き詰まりの中で試行錯誤の末に新しい文明スタイルを生み出すことを命じるわけです。その試行錯誤の期間が改革期というわけです。
この際、その新しい文明スタイルが既存の文明の制度に相性がいいのかどうかなどは、人間の増加本能にとってはどうでもいいことなのです。人間の本能は人間が増えることのみを重要視しているのであって、文明の寿命や軋轢などはどうでもいいのです。文明など、何度でも取り替えればいいということなのです。
その新しい文明は古い文明の基盤の上に作られるものですから、もちろん古い文明にも基づいているのですが、そうではなく古い文明とは異質なものに基づいている部分もあるわけで、その新しい文明が育ってくるにつれて、次第に古い文明との異質な部分が目立ってくるようになるのです。
このあたりの時期が変質期というわけで、新しい文明が育っていく過程においてその異質な部分が目立ってくる以前が変質期前期で、目だってきた後が変質期後期という感じでしょうか。
そして変質期が終わった後、次の時代において、この新しい文明スタイルは目覚しく発展し社会を再び成長傾向に導きますが、それにつれて古い文明との齟齬はますます大きくなっていくのです。そしてその齟齬が限界値を超えた時、古い文明は衰退傾向に入っていくのです。

一方、新しい文明のほうも最初に生み出されたスタイルのまま育っていくわけではなく、次第にその性格を変えていくからこそ古い文明との齟齬が大きくなっていくのであり、その変化は自然に任せていても進行していくのですが、その新しい文明の変化を更に促進する触媒になるのが、変質期後期以降に継続的にもたらされる外的刺激なのです。
それは社会に内在する必然の流れなのではなく、例えば天変地異や疫病、そして外国からの脅威や文化流入などのような、偶然的要素の強いものです。それらの外的刺激そのものが文明を変えていくというわけではなく、そうした外的刺激を受けた国内社会のリアクションによって文明が変化していくのです。
幕藩国家変質期後期以降、そういった外的刺激も断続的に日本社会にもたらされるようになり、改革期に生み出され変質期前期に育った新しい文明に大きな刺激を与えて、その内容を更に変質させて、社会を動かすパワーへと押し上げていくのです。
そのパワーとは何かを端的に言うと、大衆社会の出現ということになるのですが、それについてはまた後で詳述します。

改革期においてそうした新しい文明スタイルを生み出した人達、例えば徳川吉宗などは、自分が新しい文明スタイルを生み出したという自覚は無いでしょう。むしろ従来の文明スタイルの延命のために懸命にその改良をしたつもりだったでしょう。しかし実際には新しい文明スタイルの誕生のきっかけを与えたのは吉宗なのです。
そして変質期においてそれを受け継いだ田沼意次も同じように懸命に従来の文明の改良に努めたのであり、決して幕藩国家に取って代わる新しい文明スタイルを育てているつもりは無かったでしょう。しかし実際にはこうした意次の育てた文明スタイルが後にどんどん従来の文明とは異質な存在となっていくのです。
それに気づき敏感に反応し、従来の文明の制度を守るために反動政治を行ったのが松平定信であり、結局その定信の試みが失敗したことによって、新しい文明スタイルが従来の文明の制度とは相容れない異質なものであることが明白になっていくのです。
そして定信自身が飢饉対策などで従来の文明の制度とは異質な制度を模索したことによっても、新しい文明スタイルのほうが従来の文明スタイルよりも今や優位にあるということも次第に明らかになっていきます。
そうして定信以降は新しい文明スタイルによって時代が牽引されて成長していくことになるのですが、今度は旧来の文明の制度がその変化について行けなくなっていくのです。そうしてとうとう黒船の来航を受けて幕末の混乱に突入していくというわけです。

このような文明の変遷や葛藤が行われるのだとしたなら、この1750年から1775年ぐらいの幕藩国家の変質期前期の期間において水面下で進行した社会変質も、一見したところでは単に人口抑制装置として働いているように見えながら、実は、更なる巨大人口を許容出来る新しい文明システムを模索した試みだったと考えるべきでしょう。
次の変質期後期に入って外的刺激、最初は天変地異であり、次に海外からの脅威なのですが、そういった外的刺激を受けて、その新しい文明システムは次第にその姿を明らかにしてくるようになり、古い文明システムにやや馴染まなくなってきます。
もちろんこの変質期後期においても安定や成熟はまだまだ続いていくのですが、それでも変質期前期と比べて、新しい文明と従来の文明との違和感は明らかに大きくなっていくのです。それは、幕府の政策が現実社会への対応能力を低下させていくことに顕著に表れることになります。
もちろん変質期前期になると必ず人口が減少傾向になったり変質期後期になると必ず天変地異や海外からの圧迫が生じるなどというオカルトチックな説を唱えるつもりはありません。
ただ言えることは、文明は確立期と修正期の100年ほどで一旦成長し切ってしまい、そのあとは更なる成長を目指して文明の殻を破ろうとする動きが起きてくるものであり、人口の推移などはその一つの現れでしかないし、天変地異や外圧などはそのきっかけの一類型に過ぎないということです。

この幕藩国家変質期前期と後期の境界としては、1778年あたりであろうと思います。この年から変質期後期に大きな影響を与える天変地異が本格的に開始され、またロシア船が日本近海に現れて通商を要求するようになったのであり、また、この年に、変質期前期を象徴する人物であった平賀源内が人を斬って入獄し、翌年獄死するのですが、この年をもって老中田沼意次は有能な片腕を失うこととなり、運命が変転していくことになるのです。
そういうわけで、この1778年あたりが節目の年であろうと思うのです。
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