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日本史についての雑文その46  自由貿易構想
だいたい1775年から1800年までの18世紀最後の25年間ぐらいが幕藩国家の変質期の後期で、実際歴史上のだいたいの変質期前期との境目は1778年の平賀源内入獄あたりということになります。
この変質期後期において社会の変質が表面化して大きな影響が生じてくるのですが、それはどのような変質なのかというと、先述したように、既存文明システムの限界値を超えた更なる成長を可能にする新たな文明システムを志向したものなのです。

そうした変質として変質期前期において進行しつつあった変化とは、農村における原料作物の生産の増加と自作経営の多角化、富の蓄積、そして都市の肥大化とそれに伴う流通や商業の発達でした。
そうした変化が晩婚化や少産化を進め、人口抑制効果を生んではいたのですが、こうした変化の実相はむしろ、更なる人口増加も許容可能な新しい文明スタイル形成への助走だと解釈すべきでしょう。
この変化の本質は、農業国から商業国あるいは工業国への脱皮の第一歩なのであり、流通の発達と産業の発達、富の拡大によって豊かな社会を作り、更なる成長、そして更なる人口増加を目指そうという社会変動なのです。

しかし、いくら産業が多彩になり富が蓄積され流通網が充実しても、結局、日本列島で生産される食料の量が同じである限り、許容される人口の上限は3千万人のままなのです。むしろ商業や工業に割かれる人口が増えれば、その分農業の労働力は下がるので、食料は少なくなり、養える人口も減るのです。
つまり、この新しい社会変化が真に更なる成長、更なる人口増加に繋がるものとするためには、この吉宗以来の殖産興業政策によって豊かになった商業資本や各種産業、流通網を使って日本列島以外の世界の物産もしくは金銀を日本にどんどん引っ張ってくる必要があるのです。そうすれば、日本列島における物産の量は飛躍的に増え、更なる成長、人口増加が見込めるのです。
そこまで貿易を大規模に展開し、その恩恵を社会に行き渡らせるためには、幕府による管理貿易だけでは無理で、田沼政権下で他の開発事業でも行われていたのと同じように、商業資本による出資を当て込んで行う必要がありました。
つまり幕府による管理貿易体制を廃して、民間の商人も参加した一種の自由貿易体制への移行というわけです。これはつまり、1641年以降固定していた幕府のいわゆる「鎖国体制」を止めて「開国」しようということになります。
これは突拍子もない発想のようにも思えるかもしれませんが、吉宗から田沼意次まで受け継がれてきた殖産興業政策と商業資本の発達をこのまま突き詰めていった場合、このような自由貿易体制に至るのは当然の帰結であり、そもそも成長が行き詰った18世紀前半にこうした社会変化が生じてきた必然性を考えれば、いずれは開国政策を採るのは歴史の避け難い運命だったともいえるでしょう。
田沼意次もそうした構想を持っており、ロシアとの交易に積極的であったと言われます。
何故ロシアかというと、ちょうど1778年にロシア船が蝦夷地に来て通商を求めてきたからであり、この時はとりあえず蝦夷地を統治していた松前藩がロシアの要求を拒否していますが、意次は1784年に蝦夷地の幕府直轄化を計画して開拓を開始し、その上でゆくゆくはロシアとの交易を開始しようという計画も立てました。
このように交易によっても民間の商人を富ませて、そこからまた冥加金や運上金を取ろうというのが意次の狙いであったであろうし、商業資本を富ませて経済活動を活発にさせ、それによって幕府財政も更に豊かにしようという構想は、いかにも重商主義政治家である意次らしい発想でありましたが、これは幕藩体制にとっては両刃の剣でもあったのです。

つまり、民間の商業資本が外国との交易で富を蓄積して大きな力を持つようになった場合、それはそれだけでも幕府権力にとって侮れない勢力となるのですが、それが大名権力と結びついた時、幕府を転覆するだけのパワーにもなり得るのであり、またそれらが外国勢力と結びついた場合には、国家転覆の危険すらあるのです。
ですから、殖産興業政策の結果、開国に至ることが必然の運命だとしても、そこに至るまでに幕府権力を強化して大名統制を強化しておかなければいけないのです。またあるいは、外国勢力につけ込まれることのないように、国内が一致団結していなければいけないわけです。そのためには中心に強大な統一権力というものが無ければいけないのです。
もちろんその中心の権力は徳川幕府でなければいけないわけです。少なくとも意次ら幕閣はそう考えたであろうし、考えなければおかしいのです。
幕藩体制を維持していくためには、少なくともそれだけの準備は整ってからでなければ、自由貿易体制には移行できないわけです。もしそういう準備が整わないままに開国すれば幕藩体制は崩壊してしまうでしょう。まぁ実際の歴史もそうなったわけですが。
しかしこの田沼時代の時点では、まだすぐに開国するというわけでもなく、まずは蝦夷地開拓が先決でしたし、そもそも蝦夷地開拓も幕府権力を更に強化するための布石でもあったろうし、意次も幕府権力の強化についてもちゃんと考えていたはずなのです。ただ社会変化の勢いは日に日に強まっていましたし、そんなにのんびりともしていられなかったというのも事実だったでしょう。
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