KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その48  問屋制家内工業
この天明大飢饉は確かに悲惨な事件でしたが、しかし大きな被害は東北地方に集中し、その他の地域では相変わらず安定と成熟が維持されていました。
それどころか、この天明大飢饉の時期を底として、ここから日本列島の人口は再び増加傾向に転じるのです。どうやら天明大飢饉をものともせず、このあたりから新しい文明スタイルは田沼時代を通してその助走期間を終えて表面に現れてくるようになったようなのです。

それは庶民の織り成す大衆社会というもので、まだそれはこの段階では初期的なもので、それほど大規模なものではありませんでしたが、それでも確かに今までに無い新しい形式を備えたもので、この後、19世紀に大きく育っていくものだったのです。
大衆社会の大きな特徴として、大量生産、大量宣伝、大量消費という要素があります。この変質期後期においては、それらが明らかな形をもって現れてきたのです。それは改革期以前の時代には現れていなかった生活スタイルだったのです。
変質期前期からそれらは発生しており、少しずつ普及していたのですが、それが明確な形を示して世の中に現れたのがこの変質期後期でした。

大量生産という部分では、問屋制家内工業の普及があります。
吉宗の農業政策転換以降、農家では米以外に、綿、繭、藍、紅花、菜種、楮などのような生活加工品の原料作物を多く栽培するようになっていました。それらの作物はそのままでは生活用品として使えませんから、問屋がそれらを農家から買い取って、それらを職人に供給して加工してもらうようにしていました。
しかしこういう専門の職人に頼むとコストがかかりますし大量に品物を作ることも出来ません。専門の職人を育成するのはそう簡単なことではなかったからですし、高価な品物ばかりでは需要も少なく、需要が少なければそもそもそんなに沢山の職人は必要ないので、そもそも大量に職人を育成しても食っていけないのです。
しかし商業が盛んになってくると、安いものを大量に作る工夫が必要になってきました。なんだかんだ言って、安いものを作ったほうが売れるのであるし、安いものは大量に売らなければ儲からないからです。
そこで、多少品質は落ちても大勢のパートタイマーに作業をさせて大量の品物を作ろうというアイデアが出てきたのです。しかし今のようにフリーターが街中をうろついているような時代ではありませんから、主な余剰労働力は農村に求めることになりました。

もともと農民というものは秋の収穫期から春の種蒔期までは比較的ヒマな稼業で、ヒマなら休めばいいのですが、とにかく江戸後期の日本人は勤勉と倹約で富を生み出すという心学的価値観の信奉者でしたから、そうした農閑期には内職などをしていたのです。
つまり、自分のところで収穫した原料作物を全部問屋に売ってしまうのではなく、少しは自分のところに残しておき、自家製の生活加工品を作って売り、細々と小遣い稼ぎをしていたというわけです。
つまり、もともと農民がパートタイムで職人の真似事のようなことをしていたのであり、労働時間と作業スキルは持っていたということになります。
ただ、それは本当に細々とした小遣い稼ぎでしかなかったのであり、効率性など最初から度外視されたものだったのですが、それをもっとシステマチックに整備しようというアイデアを問屋が持ち込んだのです。
つまり各農家に問屋が生活加工品を作るための原料や作業用機械、資金などを前貸しして、そうやって生産した生活加工品を農家から買い取るという生産様式を作り上げたのです。これが問屋制家内工業で、特に木綿製品の生産が西日本や東海地方で広く普及するようになりました。
このシステムならば、農家は自給自足体制で作業する必要はなくなり、原料がいくらでも供給されるのですから、家族総出で一生懸命作業すれば多くの加工品を作って多くの報酬を得ることが出来るのです。
更に多くの報酬を得ようという農家は、小作人を多く雇って労働力を増やして、ちょっとした有限会社形式で作業をすればいいわけです。こうして豊かになっていった自作農が「富農」と呼ばれるようになっていきました。

こうなると労働力が多ければ多いほど生産量が増えて儲けも増えるわけですから、多くの労働力を確保するために子供を多く産もうという風潮になってくるわけです。
農業がメインの場合は、耕作地は限りがあり、もう新田も開発され尽くし、労働力を多く投入してももう生産量は頭打ちという状況だったわけですが、こうした手工業報酬が収入に占める割合が増えてくると、労働力を投入すればしただけ収入が増えるようになってきますから、張り切って子作りに励むようになるのです。
確かに、このように副業が増えれば女性がそちらの貴重な労働力となってくるわけで、女性の労働力としての需要の高まりは晩婚化や少産化を招くのも事実なのですが、このように更なる労働力の再生産、つまり出産が、長い目で見れば収入の増加に繋がるという状況の出現と天秤にかけた場合、やや後者の魅力が勝ったのではないでしょうか。
それは雇用側である富農にしても、被雇用者である小作農にしても同じことで、その報酬が問屋からであるか富農からであるかの違いだけであって、家計への助けになることには違いないわけです。
そして、そうやって人口が増えれば増えるほど、その生活加工品の購買者が増えて需要が増えるわけですから、巡りめぐって生産者側への報酬のアップに繋がるのです。
このように、問屋制家内工業の普及が人口の増加傾向へのシフトチェンジに大きく関わっているのだと思われるのです。

一方、農家が更に多くの収入を望んで、更に多くの資金を問屋から借り入れて、更に多くの小作農を雇って事業拡大を企て、その結果事業の目論見が外れて借金まみれになって没落していくケースも増えました。
そういう場合はその農家は借金のカタに農地を売り払い都市に出て奉公人になったりして、都市住人が増えていきました。それがまた都市の消費文化を活性化させて多くの需要を生み出していったのです。しかし一方、荒れ果てた農地も増えるようになってきました。
このように、人口が増加し都市住人が増える一方、非農業従事者が増えたり、非耕作地が増えるという状況は、未だ小氷期の気候不順から抜け出ておらず、自由貿易体制に移行してもいないこの時代においては、飢饉リスクが高まるということでもあります。
これによって飢饉対策について田沼政権後の為政者は取り組まねばならなくなってくるのは必然というものでした。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。