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日本史についての雑文その50  林子平
こうした、大量生産、大量宣伝、大量消費による大衆社会の初期的形態が出現していたのが田沼時代だったのです。そして同時にこの時代は、庶民も知識人も知的好奇心が爆発していた時代でもありました。
特に知識人が興味を向けたのが蘭学で、1774年の「解体新書」出版以降、知識人たちは海外の知識を得ようと腐心するようになりました。
そうした知識人たちは主に長崎に出かけていってオランダ商人と接触して海外情報を得ようとしたのです。そうした知識人の中に仙台藩士の林子平がいました。

子平が問題意識を持ったのは国防についてでした。1778年にロシア船が蝦夷地に到達して通商を求めてきていたということを知ったことが問題意識を持ったきっかけで、その後、蝦夷地を探検したり、長崎でオランダ商人から情報収集したりした上で、1785年に「三国通覧図説」、1786年から1791年にかけて「海国兵談」を執筆し出版したのです。
これらの著作についてまず言えることは、子平が知り得た情報はそれほど豊富であったとは言えないのですが、それでいてよくもまぁこれほど的確な提言が出来るものだという驚嘆です。

「三国通覧図説」は蝦夷地と琉球と朝鮮の3つの地域の地誌や風俗についての解説が述べられているのですが、その3分の2ほどは蝦夷地の記述に充てられており、蝦夷地を開発して日本の領土としてロシアの南下政策に備えるよう提言されていました。
これは長崎のオランダ商人から仕入れたロシアの南下政策に関する情報からインスピレーションを受けたもので、この時点でロシアを安全保障上の脅威と認識している点で炯眼と言っていいでしょう。
この頃のロシアはヨーロッパ情勢にも再三介入してくるようになってきており、その一方でコーカサス方面でトルコやイランとしきりに紛争を繰り返していました。そしてそうした動きの本質が不凍港を求めての南下政策であるということを長崎のオランダ商人は認識しており、それを子平に伝えたのでしょう。
そのロシアが蝦夷地に現れるようになっていたのですから、子平が危機感を持つのは当然というわけで、1785年の「三国通覧図説」出版となったわけです。
ちょうどその前年から田沼意次の肝煎りで蝦夷地の開発が開始されていましたが、まだ調査段階でしたし、ロシアを意識した蝦夷地領有化計画までは公表されていない状況でしたから、子平の提言は意次の計画とほとんど符号していたのみならず、ロシアを交易相手としてのみ認識していた意次よりも、安全保障上の脅威と認識していた子平のほうが鋭く未来を見通していたともいえます。

一方の「海国兵談」のほうは日本海岸総軍備の重要性や必要性を説いた本で、日本は海に囲まれた国なので、日本を植民地化しようとする外国は軍艦で簡単に侵入してくることが出来るので、日本は植民地化を免れるためには海外の軍艦を破るための軍備を整えなければいけないということが主旨です。
そして海戦の勝敗を分ける兵器は大砲であるとして、大砲の開発や運用、配備などについて極めて具体的な提言を行っているのです。
子平の論の特徴的なところは、抽象論ではなく非常に実用的な具体論が展開されるところです。江戸後期の実学的な儒学や蘭学の下地があったからなのか、あるいは「分かりやすさ」重視の江戸大衆文化の影響もあったのかもしれません。
子平はこの「海国兵談」において、このような大砲へのこだわりの他、江戸湾防備の重要性や、西洋列強に対抗するための海軍充実などの富国強兵政策など、後世を先取りした提言を数々行っていますが、これらの根底にあるのは極めて強い対外的危機感でした。
これだけ確信的な対外的危機感を持ち、そしてそれは決して杞憂ではなかったわけですから、これについてもやはり子平は長崎のオランダ商人から最新情報を仕入れていたのだと考えたほうがいいでしょう。
「海国兵談」は1786年に第一巻が刊行されますが、それに先立つ1776年にはアメリカ独立戦争が勃発し、1783年にはイギリスは新大陸の植民地を失い、アジア方面への進出を開始するようになりました。既に1757年のプラッシーの戦いに勝利してイギリスによるインド植民地化の第一歩は踏み出されていました。こうした最新の世界情勢の変化は長崎のオランダ商人にも伝えられていたはずであり、それが子平にも伝えられ、それゆえに子平は極めて確信的な対外的危機感を抱いたのではないでしょうか。

しかし、現代では分かりにくいかもしれませんが、実はここで子平は物凄いことを書いているわけなのです。何故なら、江戸時代当時の日本においては海というものは絶対的な防壁という考え方が一般的であり、海から敵が攻めてくるとは考えられていなかったからです。
これは別に平和ボケしていたからというわけではなく、この頃は蒸気船というものが存在していなかったからです。正確に言えば、子平が「海国兵談」第一巻を刊行した1786年の翌年1787年に最初の蒸気船がヨーロッパで発明されていますが、これはまだまだ外洋航海に耐えるようなものでなく、そもそも実用に耐えるようなものでもなかったのです。
蒸気船以前の段階となると帆船ということになりますが、帆船というものは軽量でなければ運用できません。ですからまず多くの人員や荷物を載せられません。つまり多くの兵隊や大砲などの重武装を載せられないのです。また、軽量にするためには木造にしなければいけませんから、装甲も薄くなり防御能力も低くなります。
つまり日本が海に囲まれている限り、一度に多くの兵力で船に乗って日本に侵入してくることは不可能なのです。日本国内には、平和が続いて単なる行政官のようになってしまっていますが、それでも一応武装している相当な数の武士階級が存在しているわけで、それを上回る兵員を日本に運んでこなければ日本を侵略することは不可能なのです。そして帆船ではそんなことは不可能なのです。
兵員の不足を武装で補おうとしても、そもそも帆船では多くの武器を運ぶことも困難であるし、特に大砲のような重い武器を大量に積むことも出来ないので、帆船から陸地に向かって艦砲射撃のようなことも出来ないのです。それに対して迎え撃つ日本側も一応は大砲も持っていますし、陸地になら多くの大砲を設置できます。旧式の大砲なのですが帆船の薄い装甲を破壊することは可能です。
まぁつまり、蒸気船が出現するまでは、船というのは船同士で戦うための兵器であって、陸地を攻撃したり上陸作戦を行うような兵器ではなかったということなのです。これは別に江戸時代の日本だけがそうだったのではなく、世界の常識だったのです。ですから、江戸時代の日本の為政者は「海からの脅威」ということを考えなかったのです。
ところが子平は、蒸気船が発明される以前に、海外情勢の一通りの知識を得た上で海岸線を眺めて、それだけで「海からの脅威」を発想したのですから、これはやはり物凄いことなのです。
確かに大量兵員輸送可能な重武装重装甲の軍艦が出現するという仮定のもとでは、子平の抱いた危機感は可能性としては存在します。しかしあくまで可能性なのであって、まだこの時点ではそういう軍艦は存在していないわけですから、絵空事と言われても仕方ないのです。それなのに、これだけ確信を持った提言を行い、しかもその危機が後世において現実化しているのですから、そういう意味で子平は物凄いわけです。
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