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日本史についての雑文その52  保守派のクーデター
さて、こういった田沼時代が1786年の田沼意次の失脚によって終わったのです。
意次の失脚は後ろ盾であった十代将軍家治の死去と、なんと家治を毒殺したという嫌疑が直接の原因ですが、こんなものは言いがかり以外の何物でもないでしょう。
これは将軍家治の死去を利用した反田沼派、つまり幕臣保守派のクーデターであり、そうしたクーデターが成功してしまう背景には天明大飢饉の際の対応不手際に関して意次の責任を追及する空気がありました。

これは本当を言うと、別に意次が悪いというわけではなく、飢饉に便乗して米の買占めに走った米問屋や諸大名が悪いのであり、確かに数十万人が餓死したわけですし、幕政の責任者であった意次に責任が無いというわけでもありませんが、仮に吉宗であったらこれで罷免されるということは無かったはずですから、やはり最高実力者とはいえ、成り上がり者で政敵も多かった意次の弱みが出てしまったということになりましょう。

意次の政敵というと幕臣内の保守派ということになります。意次の進めていた政策は吉宗が敷いた路線の上のものであり、本当は意次の政策こそが幕府の正統派の路線のはずなのですが、保守派から見ると意次の政策こそが幕府の権威を損ねているということになるのでした。
そういう保守派の言い分にも一理ある部分もあって、確かに意次の政策によって勃興してきた商業資本や大衆社会や新しい学問や言論人たちは、これまでの幕藩国家体制には存在しなかったパワーであり、これらは別に幕府に反抗的というわけではなかったのですが、幕府による統制から外れることも多く、幕府へ権力を集中して幕府の権威を高めようとする保守派勢力にとっては煩わしい存在でした。そうした連中をのさばらせたのが田沼政治だというのが保守派の言い分でした。
実際、こうした新しい勢力が次の時代には幕藩体制を揺るがせてくるのですから、それにある種の危険性を嗅ぎ取った勘に間違いはなかったのです。しかしそれは幕藩体制のほうが時代の変化にそぐわなくなってくるからなのですが、そういう風に考える人ならば、もともと保守派にはならないのでしょう。
ただ、幕臣保守派の方々が幕府の権威を高めようとしたことにもちゃんとした理由はあるのです。これは意次の失敗にも関係してくることなのですが、幕府に権限や権威をもっと集中しなければ、天明大飢饉のような自然災害が起きた時に諸大名や商人たちが好き勝手な行動をとってしまい、有効な対策を打てなくなるのです。
そういう不祥事があって意次が失脚した後ですから、その後を受けた政権運営が商人や諸大名に対して抑圧的で、幕府の権威回復、中央集権化を志向したものになるのは流れ上、仕方のないことでした。そして実際、相変わらず、いつ再び大飢饉が襲ってくるのか分からない以上、当面そうした措置も確かに必要なものでした。
また、自然災害と同じく有事である海外からの脅威に対抗するためにも、中央集権化は必要になってきます。
田沼政権が模索していた開国による自由貿易体制の構築にしても、その前提として中央集権化がなされていなければ、国内分裂にもつながりかねないのですから、中央集権化という流れそのものは間違いではないのです。
田沼政権においてもそういうことが無視されていたわけではないのですが、それよりも新興勢力の勢いを利用しての経済発展のほうを当面優先していこうというのが田沼政権のスタンスであったのです。それが天明大飢饉の混乱によって中央集権化を必要とする空気が高まったところで、保守派によるクーデターが成功してしまったというのが、この田沼時代の突然の終焉の実相でしょう。

だから、この保守派のクーデターは、ポスト天明大飢饉という、この時代の要請をそれなりに受けたものであり、短期的には十分に正当性のあるものだったといっていいでしょう。その求められていたものはズバリ飢饉対策であり、当初は飢饉対策のピンチヒッター政権という意味合いが強かったのではないかと思います。
老中筆頭に天明大飢饉の際の対応の良さで評判の高かった白河藩の松平定信を据えたのも、明らかに飢饉対策政権というカラーを反映したものでした。
定信が起用されたもう一つの理由は、おそらく吉宗の孫という血筋の良さによって幕府の権威の回復につながるというイメージであったと思います。
定信が意次を追い出して政権を握った形になっていますから、定信と意次が同格の政治家であるかのようなイメージをどうしても持ってしまいますが、それは事実とはだいぶ違うと思われます。
意次は十代の頃から吉宗の側で幕政に関与してきて、幕政中枢にいた期間だけでも39歳から67歳までの28年間の長期間にわたっており、まさに幕政に生涯を捧げたと言ってもいい政治家なのですが、一方の定信は幕政に関与したのは、この意次失脚後からの6年間だけであり、その終了時点で34歳であり、その後72歳まで生きたにもかかわらず幕政に復帰することなく生涯のほとんどの期間を白河藩主として過ごしたのです。
こうして比べてみると、意次が良きにしろ悪しきにしろ、幕府内に確固とした権力基盤を築いていた実力者であったという印象がある一方で、定信のほうはワンポイントリリーフというかシンボル的起用というような印象がどうも強いのです。

もちろん、白河藩における治世などを見ても、定信が優秀な政治家であったことは間違いのないことなのですが、この田沼時代後の幕政、つまり寛政の改革と言われている治世における定信というのは、あくまで保守派の御輿のような存在であったのではないかと思うのです。もちろん指導力も主体性もある御輿ではあったのですが、あくまで保守派の意向を反映する存在で、その限界を超えることが無かったのだと思うのです。
そして、御輿であって実質ではなかったからこそ、後に尊号事件という全く些細なことに関連して罷免され、そして定信が罷免された後も幕政の方針が変わることは無かったのだと思われるのです。
それは吉宗死後に吉宗の方針が引き継がれたのとは意味合いが違い、吉宗は試行錯誤の末にそうした方向性を自分で作り上げた上で仕事を終えたのですが、定信の場合は最初から保守派の既定方針があって、その範疇でやっていたような印象を受けるのです。だから定信失脚後も全くスムーズに同じ方針が続けられたのです。
よく享保、寛政、天保の3つで三大改革などと言われますが、このように享保の改革の吉宗と寛政の改革の定信では全く異質なものを感じるのです。
また、後に出てきますが、長期間幕政に関与した末に将軍側近を追放した上で思い切った改革を行い諸大名の猛反発を受けて失脚した天保の改革の水野忠邦もまた、定信とは全く異質なタイプの政治家だと言っていいでしょう。
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