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日本史についての雑文その53  松平定信
松平定信という政治家の実態は、飢饉対策のエキスパートにして、幕臣保守派の総意の代弁者というような感じではなかったでしょうか。もちろん定信自身もコチコチの保守派ではあったでしょうが。
そういうわけですから、飢饉対策についてはそれなりにちゃんとした施策を行っています。諸大名に飢饉の備えての穀物の備蓄を義務づけ、また町人に対しては町会所の経費を節約させて救荒基金を積み立てさせました。

そして、これらの備蓄や基金を実際に飢饉発生の際に有効に運用するためには、全国各地の情報を迅速に伝達し物資を効率的に運用する全国的システムの構築が必要でした。これについては定信の短い治世の間には成果は上がりませんでしたが、定信の後を継いだ保守派幕臣たちによって次第に整えられ、1832年から始まった天保大飢饉の時にはそれなりに有効に機能し、天明大飢饉に比べて被害を少なくすることに成功したのです。
ただ、こうした全国的な一体型システムの構築は、幕藩体制を維持するよりもむしろ中央集権国家体制への移行に繋がるもので、それでいて徳川幕府を維持していくためには、徳川幕府へ権力と権威を集中した中央集権体制の構築が不可欠となってくるのでした。
この中央集権化への志向に関しては、その中心が徳川氏であるかどうかはともかくとして、この後の時代の大衆社会の要望にも沿ったものであり、また「公共のための忠」を武士道のスタンダードとしてきた武士階級にとっても自然に受け入れられるものであり、幕末に向けた流れの中では方向性としては決して間違いではなかったのです。
その中心が徳川氏になるというのも別に何ら問題のあることでもありませんでした。実際問題として徳川氏が当時の日本における最大の実力者でありましたし、徳川の治世はおおむね善政であったという実績もありました。
ですから、重商主義政策を継続しながら徳川氏中心の中央集権体制へ徐々に移行していくという方向性もあり得たのであるし、田沼意次ならばそうしたのではないでしょうか。しかし、この田沼時代後の幕臣保守派たちは、幕府の権力と権威を高める方法論として、時代の流れに逆行するような反動政策を多々行うことになるのです。

何故そうなってしまうのかというと、彼らは幕藩国家の限界を超えることが出来なかったからです。幕藩国家の矛盾と言ったほうがいいかもしれません。それは荻生徂徠が指摘していた「武士生活の矛盾」です。
そもそも幕藩体制というものは武士階級を土地から切り離すことによって戦争の無い世の中を作るためのものでした。戦争の無い世の中を作った目的は経済発展のためでした。そしてその目的通り、経済発展を成し遂げたのです。
ところが戦争の無い平和な時代において権力を保証するものは財政的裏付けしか無いのですが、経済が発展して貨幣経済が膨れ上がると、何も生産せず支給される俸禄米で食いつなぐ武士階級が貨幣経済に圧迫されるようになってきました。そういった武士階級が負担となって幕府財政は悪化していき、幕府の権力は低下していったのです。
それを解決するためには、まず徂徠の提案したように、武士階級を農村に帰して生産活動に従事させるというものがありました。しかしこれは土地を得た武士による反乱によって戦国に戻る危険性があり却下されました。
そこで吉宗が辿り着いた結論は、殖産興業政策で更に経済を発展させて税収や貿易で幕府財政を立て直そうというものでした。これは確かに成功しましたが、その路線上の田沼の重商主義政策は商業資本の拡大と大衆社会の勃興を招き、農村の商業化は米経済の弱体化を招きました。これが結局は武士階級にとって脅威になるということに幕臣保守派は気づくようになってきたのです。
武士階級を守ることが幕藩体制の存在意義なのであって、武士階級を守りきれなくなった時、幕藩体制は崩壊するのです。武士階級が幕府や藩を当てにできなくなり、勝手に自力救済の行動に走った時、世の中は乱れて幕藩体制は維持出来なくなるのです。ですから、幕府は何が何でも「武士生活の矛盾」と付き合って、武士階級を守らなければいけないのです。これが幕臣保守派の考え方です。
ですから、それを脅かす新勢力の勃興を招いた田沼政治は否定されなければならなかったのです。しかし田沼政治を否定するということは、吉宗の引いた殖産興業政策のラインも否定するということになってしまいますが、しかしそうなると、いったいどのようにして幕府財政を維持して幕府権力を高めていくというのでしょうか。

ハッキリ言って、そうなるともう根本的な解決策は無くなってしまうのです。
ただ、とりあえず当面は使える策としては、吉宗の初期政策であった緊縮財政と増税という路線はありました。定信や保守派が採用したのはこの路線でした。しかしこの路線は、商業資本によって掻き回されて、いずれ失敗することが約束されている路線でした。
そこで定信や幕臣保守派は、思い切って時間を巻き戻してしまうことにしたのです。つまり商業資本や大衆社会がまだ武士階級を脅かすほどの力を持っていなかった時代に戻してしまおうとしたのです。
それはどういう時代かというと、家康が幕府を開いた頃の時代ということです。そうして極端な復古政策、反動政策が敷かれることになったのです。
吉宗の初期政策も確かに「家康公の頃に帰れ」というスローガンの下で行われましたから、それに倣った定信の政策もまた家康時代への復古を志向するのは自然なことのようにも見えますが、吉宗の場合は復古はイメージ戦略の要素が強かったのですが、定信の場合はどうも本気で幕府初期の体制への復古を目指していたようです。まぁ実際、もうそれしか道が残されていなかったのでしょうけど。
しかし、それは完全に世の中の流れに逆行する政策でした。
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