KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その54  寛政の改革
まず寛政の改革期における緊縮財政としては、たびたび倹約令が出されています。これは吉宗時代と同じです。
また定信の緊縮政策としては田沼政治の否定という側面が強かったため、商業資本に対して圧迫的な政策がとられました。これは新勢力に対する抑圧という狙いも含まれていたのでしょう。株仲間や専売制を廃止して特権商人への優遇措置をやめました。
そして田沼時代のインフレ傾向にストップをかけて物価を抑制するために、南遼二朱銀を廃止して貨幣流通量を減らしたのですが、これによってデフレを招き景気は冷え込み、かえって幕府財政は悪化しました。

そこで幕府収入を増加させるために、都市に流出した農民を農村に帰して農業人口の回復増加と耕地面積の復旧増大によって年貢収入増加を目指しましたが、これは飢饉対策も兼ねたものであったのですが、なかなか成果は上がりませんでした。
さらに農村の復旧のために、公金を農村上層部に貸し付けて、当初はその金利を耕地復興費に充てたりもしましたが、こうした公金貸し付けは後には年貢外収入として幕府財政の重要な収入源となっていくことになります。しかしこれは幕府が金貸し業を行っているようなもので、一種の増税策であり、あまり評判は良くありませんでした。
その他、年貢収入が伸びない分、何やかやと名目をつけて大名には手伝金、農民には国役金を課したり、様々な公金貸付を行うようになり、実質的な増税策を恣意的に濫発したので、大名や農民の反発を招きました。
こうした無計画な経済政策が定信以後も長期間継続されたことも19世紀に入って百姓一揆が爆発的に増加した原因の一つとなりました。
こうした幕府財政再建の試みも空しく、財政状況は好転せず、定信以降の時代は田沼時代の貯蓄を食いつぶしていくことになったのでした。その原因は、やはり肝心の年貢収入が伸び悩んだことと、倹約令があまり効果を発揮しなかったことでしょう。
倹約令が効果を発揮するには、やはり吉宗レベルの余程のリーダーシップが必要であり、率先垂範の姿勢が必要なのです。定信にはそこまでのリーダーシップは無かったし、トップにいる将軍家斉には吉宗のような率先垂範の姿勢はありませんでした。そんなことでは倹約令など、なかなか効果を上げるものではないのです。

また、定信は財政難に陥った武士階級の救済策として、米の仲買商人に旗本や御家人が給米を担保として借りた借金を棒引きにする措置を講じました。これは米商人への圧迫政策も兼ねていたのでしょうが、これによって120万両もの金が市場から破棄されたことになり、不景気に拍車をかけました。
ここでも米商人への損失補填措置という名目で公金貸付を行っていますが、そんなことで米商人が納得するはずもなく、結局はその後、旗本や御家人への米商人からの貸付は行われなくなり、かえって武士階級の困窮に拍車をかけてしまったのでした。
このように定信の政治は、武士階級を優遇して商人などには厳しいものが多かったのですが、身分制度の徹底によって幕藩体制を立て直そうというのが定信の政治の特徴でした。
これはまさに幕府初期への復古政策の典型であり、これは武士階級内部でも厳格な家門の序列化が徹底され、幕政の現場でも能力よりも家格や門地が優先されるようになってしまいました。
これは五代将軍綱吉の導入した側用人制度以前への逆行でした。そもそも側用人というのは幕府の正式役職ではなく、身分は低くても才能のある人材を登用するために綱吉が導入した制度だったのです。このような実力主義的登用によって幕政をリフレッシュしていくという方法は、綱吉や吉宗のような英明な将軍によって繰り返され、とうとう田沼意次に至って側用人出身者が老中にまで登りつめるようになったのですが、定信によって振り出しに戻されてしまったのです。
このような家格門地主義を打ち破るには英明な将軍によるトップダウンの決断しかないのですが、十一代の家斉以降は幕末まで暗愚な将軍が続いたため、定信の時代以降は、とうとうこの門閥主義を打ち破ることは出来ず、幕政は行き詰っていくことになるのです。

また、定信は幕府公認の学問を朱子学のみと定め、幕府の学問所での陽明学や古学の講義を禁じ、また、蘭学を公的機関から徹底排除し、蘭学者を公職から追放するという極端な政策をとりました。
これも幕府設立当初の姿に戻そうという姿勢の表われだったのですが、せっかくの荻生徂徠以降の儒学の政治学としての成果の多くを無駄にする愚策であり、幕政をますます硬直化したものにしていきました。
これら新しい学問は、江戸時代後半になって勃興してきた新しい勢力と密接な関係があったので定信の反動政策の槍玉に上がったのですが、特に蘭学は幕政への批判に繋がるので嫌われました。蘭学者は海外情報に触れることが多く、幕府の貿易政策や国防政策の矛盾点を突くことが多かったからです。
常識的に考えて貿易は盛んに行ったほうが国は栄えるのであるし、国防もちゃんとやったほうがいいのは当たり前なのです。海外情報に通じていれば誰でもそう思うのです。もちろん幕政当局者でもそれは分かっているのです。しかし、貿易や軍備を全国的に行うということは諸大名や商人の力を強めて、相対的に幕府の支配力の低下を招くのです。それを防ぐためには中央集権体制を樹立するしかないのですが、財政再建も出来ない現状ではそんなことは不可能なわけです。
だから幕府の保守派としては、この貿易や国防に関して正論を言ってくる蘭学者が鬱陶しくて仕方がないわけなのです。そういうわけで蘭学者は排除されたわけなのですが、その際、幕府に対する政治批判全般を禁止したため、幕府に対して献策する者もいなくなり、ますます幕政を窮屈で偏狭なものにしてしまいました。
このような風潮の中ですから、幕府の国防政策に注文をつけまくっていた「海国兵談」を刊行していた林子平が無事で済むはずもありません。
そもそも子平が「三国通覧図説」で主張していた蝦夷地開発計画については、田沼政権下でそれは計画されていたのですが、定信はそれを撤回し、蝦夷地開発計画は放棄していたのです。
定信の考えでは、ロシアとの通商など問題外で、ロシアの脅威についても、蝦夷地が未開のほうが天然の要害となってロシアを阻めるというような考えだったようです。ロシアの狙いは不凍港なのですから、こんな考えは全く見当違いなのですが、とにかく子平の考えとは真っ向から対立することになります。
そういうわけで、子平は幕府に対する政治批判をしたということで、1792年に「三国通覧図説」「海国兵談」は発禁になり版木も没収され、子平は謹慎処分となり翌年に失意のうちに亡くなりました。

しかし、子平が処分された4ヵ月後にロシア政府の使節アダム・ラクスマンが日本人漂流民を伴って蝦夷地の根室に来航し通商を要求し、子平の予言は的中します。といっても、ラクスマンは侵略に来たわけではないのですが、ロシアが潜在的脅威であることには違いありません。
この時はとりあえず漂流民の送還は許可することとして通商交渉は先送りしてラクスマンにはお引取り願うことになったのですが、とにかく子平が「三国通覧図説」や「海国兵談」で主張していた内容がほとんど正しいということが立証されたわけで、この後の幕府の蝦夷地に関する方針や全国の海防方針は、次第に基本的に子平の主張に沿ったものになっていくことになり、それは明治以後も引き継がれ拡大していき、とうとう子平の目指していた富国強兵によって西洋列強と肩を並べるところにまで行き着くことになるのです。
蝦夷地に関しては、定信失脚後のことになりますが、1799年には東蝦夷地を幕府の直轄領とし、1802年には蝦夷奉行を置き、開発を進めていくことになりました。そして東北地方の農民が蝦夷地に移住してニシン漁に従事するようにもなっていきました。ニシンは食べるのではなく、田畑の肥料にするのです。金肥といいまして、日本近海で獲れるイワシを使うことが多かったのですが、この頃になると乱獲で数が減ってイワシが値上がりしてきて、安価の蝦夷地のニシンの需要が高まってきたのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。