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日本史についての雑文その56  定信罷免
このように定信の改革はあまり果果しい成果が上がらず、老中就任6年目の1793年にあっさり罷免されることになりますが、改革失敗が原因で失脚したというわけではありません。定信失脚の原因は将軍家斉との不仲でした。
十一代将軍の徳川家斉は、十代将軍家治の世嗣が急死したために一橋家から将軍家に養子に入り、更に1786年に家治が急死した後、14歳で将軍となりました。将軍になると即刻、田沼意次を罷免し、翌年に27歳の白河藩主の松平定信を老中筆頭に登用して政治改革にあたらせることになったのです。

これらの動きが若年の家斉の主導で行われたということはなく、こうした動きの裏で暗躍していたのは家斉の実父の一橋治斉でした。治斉は吉宗の孫だったのですが、反田沼派、つまり幕臣保守派の黒幕的存在で、保守派のクーデターも定信登用も、治斉の指示で行われたのです。大変な陰謀家で、権力欲の強い我侭な人物であったようです。
吉宗が自分の実子3人に御三卿を作らせてから江戸城は権力闘争の場となってしまい、治斉のような陰謀家が育ってきてしまうことになったのです。ここから徳川将軍家の劣化が始まります。
陰謀家の治斉の子の家斉は残虐で好色、その子の十二代家慶は政治に無関心、その子の十三代家定は引き篭もりの異常性格者であったとのことで、まともに政治に取り組んだ将軍はこの治斉の血筋では皆無です。この期間に無為に時を過ごすことになり、徳川幕府の権威は大いに失墜してしまうことになります。
このような治斉ですから、さすがに定信も距離を置くようになり、政治への口出しをさせないようにしていました。
だいたい、もともと御三卿の一つである田安家の生まれで将軍就任資格もあった定信を白河藩の松平家に養子に出して田安家を潰した黒幕も一橋治斉その人だったわけで、定信が個人的にも政治的にも治斉に対して良い感情を抱いているはずもないのです。
治斉はその際には田沼意次に働きかけて定信追放と田安家潰しに協力させておきながら、コロッと掌を返して今度は意次を追放し、定信を老中筆頭に据えたのです。こんな人物ですから、今度こそ自分の天下だと張り切って色々と出しゃばってこようとしていたのですが、別にこの治斉にしろ家斉にしろ、この親子は政治にはほとんど興味は無く、単に自分達が贅沢や我侭を言って暮らしたいだけだったので、定信の倹約政策の矛先が自分達に向いてくることがイヤで堪らなかったのでした。それでゴチャゴチャ口出しすることが多々あり、定信はそれが鬱陶しかったわけです。
そういったトラブルがこの両者間にあったところに、家斉が「実父の治斉を大御所にしたい」と言い出して、定信があくまで「将軍になったことがない人を大御所とすることは出来ません」と断ったために、家斉と治斉の機嫌を損ねて、定信は1793年に罷免されたのです。

この顛末を見てまず言えることは、なんとも些細なことで罷免されたものだということです。
つまりそれだけ定信の地位は軽いものだったということなのでしょう。
家斉が暗愚で定信の改革の重要性が分からなかったからだという事情でもないでしょう。何故なら、定信罷免後も、定信の政策は何ら改められることなく幕臣保守派の幕閣たちに受け継がれているからです。
まぁ家斉が改革の重要性が理解できなかったのは事実でしょうけれど、罷免の理由としては単に定信という人間が気に入らなかったというだけのことだったことは明白です。
驚くべきことは、定信を排除して家斉が治斉を大御所に据えたかというと、それすらしなかったということです。それでは何のために定信を罷免までしたのか訳が分かりません。
つまり定信の意見があまりに尤もであったので反論できず単に腹いせに罷免したということか、あるいは最初から治斉を大御所にするつもりなどなく、定信が断ることを見越して罷免の口実としたかっただけなのかもしれません。いずれにしても、定信の立場は非常に軽いものであったということは確かなようです。
定信の政治的立場は、やはり一橋治斉を盟主とした幕臣保守派の支持なくしては維持できない不安定なものであったのであり、政策的能力では彼らの中では群を抜いていたために改革政治を任されてはいたものの、政治力という点ではほとんど傀儡に近い存在だったのではないでしょうか。
そして定信罷免後は、家斉や治斉の贅沢や我侭を諌める者はいなくなり、幕府は頂点から腐っていくことになるのです。
家斉や治斉は真面目な政治向きの話には興味は持たず、政治は幕閣に任せっきりだったので定信失脚後も政策の変更はありませんでした。もともと定信の政策は幕臣保守派の意向そのものだったのですから、政策の相違点も無かったからです。
唯一、蝦夷地政策や海防政策だけは変更されましたが、これはラクスマンの来航や後のフヴォストフ事件やフェートン号事件を受けてのもので、定信罷免の影響を受けてのことではありません。
しかし、定信の政策といえば、ここまで述べてきたようにこの時代の流れに逆行するようなものが多く、新興の商業資本や大衆社会の現実からは乖離しており実効性がほとんど無く、むしろ幕府や武士階級の力を弱めて、新興勢力からは反発を招きそれらの独自の発展によって既存体制のほうが置き去りになっていくような傾向がありました。
こういう政策がこの後、1817年まで24年間も無為に継続されたことは、徳川幕府体制にとって大きな禍根となったのでした。
徳川幕府にとっての過ちは、この時に定信を罷免したことではなく、むしろ定信を罷免した後に早急に政策の変更を行わなかったことのほうです。それが行われなかった最大の理由は、十一代将軍の家斉が暗愚で、真面目に政治に取り組む姿勢が無かったからなのです。
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