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日本史についての雑文その57  光格天皇
ところで、この定信の時代に京都の朝廷で皇位にあったのは第119代の光格天皇であり、この帝は直系皇族の出自ではありませんでした。日本の皇室の歴史を紐解いてみれば、決して直系の血筋だけで繋がってきたわけではないことが分かります。
初代の神武天皇以降の初期王朝に関しては実在が疑問視されたり何系統かに分かれているという説もあったりしますが、まぁここは記紀の記述に従えば、初代の神武天皇から25代の武烈天皇までが直系男子の血統で繋がった初期王朝ということになるでしょう。

そして武烈天皇に男子がいなかったために直系の男系の血筋が絶えて、15代の応神天皇にまで遡ってその5世孫の人物を武烈天皇の姉の婿にして皇位に迎え、26代の継体天皇として推戴しました。武烈天皇から見れば継体天皇は10親等離れていることになります。これ以降を継体朝として、この継体朝は39代の弘文天皇まで続きます。
弘文天皇の後に皇位に就いたのは40代の天武天皇であり、天武天皇は弘文天皇の叔父にあたり、また37代の斉明天皇の実子にあたりますから、血縁的には非常に近いのですが、壬申の乱で弘文天皇を滅ぼして皇位に就いていますから、ここからは天武朝ということにします。天武天皇が即位したのが672年で、天武朝は48代の称徳天皇まで続いて、ここで男系男子が途絶えます。
ここで継体朝の系統の38代の天智天皇にまで遡り、その孫の人物を皇位に迎えて、770年に49代の光仁天皇として推戴します。称徳天皇から見れば光仁天皇は8親等離れていることになります。ここから光仁朝が始まります。
この光仁朝は摂関政治の時代にあたり、複雑な縁戚関係によって系図も複雑なものにはなりますが、それでも直系の血筋はよく続き、88代の後嵯峨天皇にまで至ります。
このあたりは鎌倉時代の後期になります。ここでも別に直系男子の血統は途絶えておらず続いていくのですが、ここから皇統が二系統に分かれて交互に皇位に就くようになり、それらが鎌倉幕府滅亡後に南朝と北朝に発展します。そして室町時代前期の足利義満の時代に南朝の皇統は99代の後亀山天皇で終わり、北朝6代目の後小松天皇が100代目の天皇ということになり、1392年に南北朝は統合します。明治以降の歴史学会は南朝正統論なので、系図上はそういうことになるのです。
ところが1428年に、この後小松天皇の子の101代の称光天皇のところで直系皇族の男子がいなくなってしまったのです。そこで北朝3代目の崇光天皇の子の栄仁親王が創始した伏見宮家から、崇光天皇の曾孫にあたる親王を102代の後花園天皇として迎えることにしました。称光天皇から見れば8親等離れた新天皇ということになります。これが伏見宮朝の始まりです。
伏見宮朝は室町時代から戦国時代を経て江戸時代まで直系の血統が続きましたが、118代の後桃園天皇のところで直系男子の血統が途絶えたのが1779年のことで、世の中は田沼時代で、ちょうど平賀源内が獄死した年でした。時代は幕藩国家変質期後期に入ろうかという頃でした。
ここで朝廷や幕府は、1710年に新井白石の献策で113代の東山天皇の皇子であった直仁親王に創始させておいた閑院宮家から新天皇を迎えることとして、東山天皇の曾孫にあたる光格天皇を後桃園天皇の養子とすることで推戴することにしたのです。後桃園天皇から見れば光格天皇は7親等離れていることになります。
これが閑院宮朝の始まりであり、この1779年の即位時、光格天皇は9歳でした。この閑院宮朝がこの後、仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇と続き、現在の今上陛下に至っているのです。今上陛下の6代前にあたる帝がこの光格天皇なのです。このように近代皇室は直系皇族ではなく傍系皇族の流れから始まっているのであり、その近代皇室の基礎を築いたのがこの光格天皇なのです。

まぁ即位時は9歳ですから何がなんだか分からなかったでしょうが、成長するにつれて光格天皇は非常に自覚のある天皇になっていきました。
何せ、350年ぶりに傍系の宮家から養子に入ってきたのですから、逆に誰よりも天皇らしくあろうと努められたのだと思われます。
松平定信が老中筆頭に就任した1787年には天皇は17歳になっていましたが、この頃には自分の意思で判断して執務されていたと思われます。何故なら、この年に、未だ被害の収まっていなかった天明大飢饉に関して朝廷から幕府に初めての意見申し入れが行われたからです。
これは実質的には幕府の失政への責めであり、こんなことは幕府始まって以来前代未聞のことでした。こういう前例の無いことは廷臣の意思でなされるものではなく、トップの決断が無いと行われることはなかなか無いものです。トップとはこの場合は天皇ですから、この申し入れには天皇の意思が大きく働いていると想定されるのです。
実際、飢饉によって流民となった人々が京都に来て乞食になったりしていたのですが、天皇は皇室の蔵にあった米を放出して貧民救済にあてたりして、飢饉の救済については並々ならぬ関心を持っておられたのは事実です。
これもおそらく、傍系の血筋ゆえに誰よりも天皇らしくあろうとして皇室の歴史をよく勉強されていたから、民への慈善事業が皇室の務めの1つであると理解されていたゆえの判断でしょう。
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