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日本史についての雑文その59  尊号事件
1788年に光格天皇が実父の閑院宮典仁親王へ上皇の尊号を贈りたいという意思を表明されたのが尊号事件の始まりでした。
典仁親王は天皇の実父でありながら公家諸法度の規定によれば摂政や関白や太政大臣、左大臣、右大臣よりも地位が低く、孝心篤い天皇はそのことを悩み、幕府に公家諸法度の改正を要請していたのですが、家康を神格化していた定信が家康の定めた公家諸法度を改正出来るはずもなく、それは拒否されていました。

ならばというわけで天皇は過去の皇室の事例を調べて、過去に二例、天皇に即位していない場合でも天皇の実父が上皇となった前例があることを挙げて、典仁親王へ上皇の尊号を贈ろうとしたのです。上皇となれば地位は天皇に準ずるわけですから、関白よりも上位になります。
これは、「過去に二例しかないではないか」という意見もあるかと思いますが、天皇の実父が天皇に即位しておらず、しかもその実父が息子の即位時に存命であった事例自体が過去に二例しかないわけですから、つまり典仁親王のような例の場合は過去においては必ず上皇の尊号を贈られているわけなのです。だから光格天皇の意見は全く正当なものだったのです。
ただこうしたケース自体が異例のことでしたし、その二例も鎌倉時代と室町時代のことで、江戸幕府が出来て公家諸法度が出来て以降はそういうケースは無いのです。よって公家諸法度にもそういう事態を想定した規定は無いのです。幕府の定めた法度に想定されていないケースに対応するために、幕府設立以前の朝廷の先例に則った天皇自身の判断を尊重するというのは、大政委任論とは真っ向から矛盾した考え方ということになります。
ならば幕府の手で公家諸法度を改正すればいいのですが、家康の作った祖法を変えることは復古主義者の定信には出来ないことでしたし、だいいち、天皇の意見表明を受けてから公家諸法度を改正するとしたら、それこそ大政委任論は崩壊してしまいます。
そして定信としては、更にどうしても天皇のこの申し出を呑めない理由もありました。それは、このような「天皇でなかった人物の上皇就任」を認めてしまった場合、将軍家斉やその実父の一橋治斉の求める「将軍でなかった人物の大御所就任」の意見を勢いづかせることになってしまうからでした。
これは、前者のほうは過去にちゃんと前例があり、後者は全く前例が無いのですから、そもそも比較するのがおかしいのですが、治斉という人物はとにかくこうしたちょっとしたきっかけがあればそこを突いてくるのであって、定信はそれについても警戒していたのでした。

そういうわけで定信は天皇が典仁親王に対して上皇の尊号を贈ることについて、それは幕府の判断すべきことであり、朝廷が決めることではないとして、その上で、天皇になっていない人物が上皇になるのは道理に反しているとか、過去の二例は戦乱の時代のことなので先例にならないとか、およそ道理の通らない反対意見を述べて妨害することになったのです。
そこで業を煮やした天皇は1791年に40人の公家を集めて尊号宣下の可否を諮問し35人の賛成を得て、尊号宣下を強行しようとし、それに対して定信は宣下賛成派の有力な公家を江戸に呼び出して審理し、1793年に天皇の許可を得ずにそれら公家を処分したのです。公家の処分も幕府に委任された政治的権限の範疇というのが定信の考え方でした。
結局、尊号宣下に関しては、水戸藩が仲介に入って、天皇は典仁親王の上皇宣下を諦める代わりに、幕府が典仁親王に加増などの待遇改善を行うということで落着しました。
そして定信はこれにより治斉の大御所就任を絶対受け入れられなくなり、そのことで将軍家斉の不興を買い罷免されたのです。あるいは、家斉や治斉らがこの尊号事件を上手く利用して定信を追放したのかもしれません。

これが尊号事件のあらましですが、治斉の一件が絡んではいるものの、大筋を要約すれば、幕府としては天皇はあくまでも幕府の決めた朱子学的価値観に基づいたルールの範囲内で動く存在でいてほしいという想いがあり、それに対して光格天皇は幕府の決めたルールを超えて自律した動きを志向し続けたということが見てとれます。
この一件に関しては最終的には天皇が折れる形で決着しましたが、この後もこの天皇は朝廷の権威復興に努め、しかもそれは中世以前の朝廷の儀式の復活を通して行われたのであり、明らかに徳川幕府の主張する朱子学的価値観とは一線を画した朝廷の在り方を模索したことが見てとれます。
光格天皇はこの後、1817年まで在位し、息子の仁孝天皇に譲位してからも上皇として朝廷の政務を見て、1840年に崩御されるまで長期にわたって朝廷の権威復興に努め、朝廷が近代天皇制度に移行する下地を作ることになります。

もちろんのことですが、この天皇は存命中は「光格天皇」とは呼称されてはいません。現在の天皇陛下も決して「平成天皇」などとは呼称されないのと同じことで、これは崩御後につけられる諡号なのです。
天皇は存命中は単に「天皇」や「帝」と呼ばれるのであり、過去の天皇と区別が必要な場合は「今上天皇」や「今上陛下」と呼ばれるのです。
明治天皇以降、1人の天皇に1つの元号が対応するようになり、元号がそのまま諡号になる習慣が定着しましたが、孝明天皇以前はそういう習慣は無く、どんな諡号がつけられるのかは生前は決まっていなかったのです。
それでこの天皇も1840年の崩御時に「光格天皇」という諡号が贈られたのです。しかし実はこれは大変なことで、崩御した天皇に諡号が贈られるのは約900年ぶりのことだったのです。
ではその900年間は崩御した天皇には何が贈られていたのかというと、それは追号だったのです。
追号というのはだいたい譲位後の在所から取られるもので、あるいは過去の追号天皇との縁故を考えてその追号の前に「後」の字をつけたりしたもので、例としては花園天皇とか後醍醐天皇とかが追号にあたります。
それに対して諡号は生前の業績を賛美して贈る称号で、例えば仁徳天皇とか聖武天皇が諡号で、この光格天皇以降、昭和天皇に至る閑院宮朝の歴代天皇も全員諡号が贈られており、もちろん追号よりも諡号のほうが格が上ということになります。
その諡号がこの天皇に贈られたということは、単にこの天皇が偉大な天皇であったというだけのことではなく、それ以上に深い意味が込められているのです。

それは、光格天皇以前に諡号が贈られた最後の天皇は58代の光孝天皇で、これは平安時代初期で、摂関政治が開始された頃で、天皇が政治的実権を失いつつある時代でした。その後、天皇が政治的権力を失うようになると諡号は贈られなくなり、追号が贈られるようになるのです。
また、そもそも「光格天皇」というような「天皇」という尊称を死後の天皇につけるということも長らく無かったことで、63代の冷泉天皇以降はだいたいは例えば「冷泉院」と呼称し、天皇とは呼称しなかったのです。こういうふうになったのも、天皇が政治的権力を失った平安時代初期のことでした。
つまり、諡号や天皇号というものは、天皇の政治的権力の象徴のようなものであり、その両方をこの天皇の崩御時に復活させたということは、この光格天皇が天皇の政治的権力の復活に業績があったということを意味しているのです。
更に言えば、この光格天皇の生涯を通して取り組んだテーマは、平安時代初期以前の、天皇が本当に政治的権力や権威を握っていた時代への復古であり、それは、徳川幕府の主張する朱子学的価値観を超越したものだったのです。
そしてそのスタンスは、この1793年の尊号事件の時から全くブレることなく継続したものだったのです。

更に遡れば、こうした徳川幕府の意向を超えた新しくそして古い皇室観というものが芽生えたのは幕藩国家変質期前期に入ってからのことであり、それが最初に現れたのは1758年の宝暦事件のことで、これは逸脱した形での反幕府思想としての現れとなりましたが、その後も底流にはこのように幕府から自律した朝廷の在り方を目指す流れは継続していたのであり、それが幕藩国家改革期前期に創設された閑院宮家にも脈々と受け継がれていたのです。それがこの変質期末期においてハッキリした形をとって表面化してきたのが尊号事件であるということです。
改革期が新文明の黎明期にあたるとすれば、この前期において近代皇室の祖である閑院宮家が創始されたということには運命的な符号を感じます。また変質期が新文明の胎動期にあたると考えればその初期に宝暦事件があり、その末期に尊号事件があったという経過にも納得がいくものがあるのです。
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