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日本史についての雑文その60  国学の大成
結局、この尊号事件の時の幕府と天皇の間の葛藤とは、朱子学のフィルターを通した「あるべき天皇像」と、日本古来の歴史に基づいた「ありのままの天皇像」との葛藤であったといえるでしょう。
そして、この時代、この後者の「ありのままの天皇像」に関する理論的根拠を提供したのが国学であり、本居宣長だったのです。

国学は幕藩国家変質期前期においては賀茂真淵に担われ本居宣長へと引き継がれました。この変質期前期において国学は、それ以前と比べて格段に多くの信奉者を獲得することになりましたが、それはあくまで政治学ではなく、芸術論の一形態である歌学としての信奉であったのでした。
そして、この変質期後期に入ってそれが本居宣長の手によって芸術論から政治学へと昇華したことによってより多くの支持者を獲得し社会に大きな影響を与えるようになったかというと、それは全く違うのであって、国学は宣長によってそれがあくまで芸術論として大成され、その後も芸術論であり続けたが故に、多くの支持者を得て、しかも社会に大きな影響を与えることになっていったのが実相なのです。
なぜ国学があくまで政治学ではなく芸術論であり続けたのかというと、それは国学がもともと政治学としての儒学に対するアンチテーゼを原点としているからであり、そのことを明確な形で再確認した人こそ、本居宣長なのです。それゆえに本居宣長は国学の大成者だといえるのです。

儒学は幕藩国家改革期前期において荻生徂徠によって政治学として大成しました。しかし徂徠学はその拠って立つ原典を古代シナに求めたので、同時にそれに対する反発が生じることになったのです。
それは、日本人の行動や政治を律する規範は異国の古典に求めるべきではなく、日本の古典に求めるべきだという考え方でした。これこそナショナリズムの芽生えなのです。
日本人の行動パターンや思考パターン、社会の成り立ちなどは、日本の古典を研究すれば見えてきます。そこから得られた教訓こそ後世の日本においても有効に活用できるのであって、異国であるシナの古典から得られる教訓は日本では有効ではないのではないかというのが国学の基本的な考え方です。
そういうわけで、まずは日本の古典の解読から入っていくことになったのですが、その方法論としては徂徠学の訓古学的手法を応用することになりました。日本語もまた、シナ語ほどではないにしても、古代の日本語と江戸時代の日本語とでは言語が変わっていましたし、そもそも奈良時代以前の古典となると、カナ文字が使われていませんから、漢字の当て字、いわゆる万葉仮名を解読していかなければいけなかったからです。

そういう考え方のもと、この改革期(新文明の黎明期)前期から後期にかけて数々の古典の注釈書を著し、日本書紀を経典とした復古神道を提唱したのが荷田春満と、その弟子の荷田在満でした。
荷田春満は国学の祖といわれますが、この春満の段階で復古神道の提唱がなされているという点で、国学というものは本来的には政治学や哲学よりは、一種の宗教に近い存在であるということが見てとれます。
そして幕藩国家変質期(新文明の胎動期)に入ると国学は和歌の厳密な研究を通して、より深く日本人の心情を突き詰めていくようになります。変質期前期においてその中心を担ったのは春満の弟子であった賀茂真淵であり、その万葉集の研究は、歌人としての真淵の名声も手伝って多くの支持者や門弟を獲得したのです。

そうした真淵の門人の一人であった本居宣長は源氏物語の研究を通して「もののあはれ」という日本文学や日本芸術における最高の価値基準といえる概念を発見しました。
「もののあはれ」は魂の最も純粋な姿の現われであり、あるがままの物に触れて素直に感動する心であり、文学芸術の価値基準として、この「もののあはれ」と異なった概念を持ち込むことを宣長は激しく拒絶したのです。
そこにおいて宣長は具体的に何を念頭に置いて拒絶したのかというと、それは儒学的な道徳的基準を拒絶したのです。
宣長は伊勢国の松坂の木綿問屋の家に生まれ、1752年に22歳にして上京して儒学を学んだが飽き足らず国学に目覚め、その後1763年に賀茂真淵に出会い門人となったのでした。宣長もまた新興の商業資本階級の出身なのです。それゆえに武士階級の学問であった儒学には飽き足らないものを感じたのかもしれません。宣長においては儒学をどのようにして超克するのかが大きなテーマであったのであり、それは国学全体にとってもそもそも大きなテーマであったのです。
当時の知識人はとにかく朱子学第一主義で、万葉集や源氏物語のような朱子学が存在していなかったような古代日本の文学作品すら朱子学的価値観で解釈しようという風潮がありましたから、宣長はそれを拒絶したのです。
古代日本の文学作品や芸術は、古来の日本人の価値観でもって解釈すべきであるということです。その価値観が「もののあはれ」であり、それは、あるがままの物をあるがままに感じて感動する素朴な心であり、外来の細かな道徳観はその解釈においては不要だということです。
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