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日本史についての雑文その61  天上無窮の神勅
このような「もののあはれ」という価値観の基本認識を獲得した宣長は、幕藩国家変質期(新文明の胎動期)後期において、古事記の研究をライフワークとしていくことになります。
1778年に古事記伝の上巻を刊行し、1792年には中巻、1798年には下巻を刊行し古事記解読を完了させていきつつ、その傍らで自身の国学論を完成させ、儒学に対する徹底的な批判を行っていったのです。

すなわち、儒学による統治の実態とは、シナの歴史が実証するように謀略や暴力によって王権を簒奪する歴史なのであり、そうやって王となった者を聖人として奉り、その為した悪事を隠蔽するための学問が儒学の正体であると、宣長は非難したのです。
これはまさに正鵠を射た儒学批判なのでありますが、更に宣長はここから一歩進んで、このような儒学に代表される「理念」というものは、現実がその理念に背反した状態にある場合にこそ、その背反状態を隠蔽し誤魔化すために一層緻密になっていくという、根本的なイデオロギー批判論に到達し、儒学が美しい理論体系を有しているということは、儒学によって成り立つシナの政治的現実がそれだけ醜く歪んでいることの証拠であると喝破したのです。
そして翻って古来から日本において儒学のような理念体系が成立しなかったのは、現実が平和に治まっているからなのであり、そのような理念体系を必要としなかったからなのだと主張したのです。

では日本は古来からどうやって平和に治まってきたのかというと、それは天上無窮の神勅によって万世一系の天皇が統治するからなのであって、つまり、君主が徳によって規定される儒学理論とは違い、君主は血統によって定まっているのであるから、仮に臣下に君主よりも徳のある人物が現れたとしても君主が交代することはないわけで、そういう可能性が無いということは戦乱や革命を正当化する理論が生まれる下地も無いのですから、世の中は平和に治まるというわけなのです。
そして宣長は、この理論は、儒学のような空虚な机上だけの理論ではなく、日本の歴史上において実証された事実でもあるとして、儒学の理念によって日本の歴史を解釈するのではなく、このありのままの事実をただ受け入れて感じ入ればいいと主張したのです。
宣長がこうした意見の表明をしたのは尊号事件が起こる少し前のことであり、この宣長の皇室観が、幕府の主張する朱子学のフィルターを通した「あるべき天皇像」に対抗して、朝廷側の日本古来の歴史に基づいた「ありのままの天皇像」の理論的優位の背景となったのです。
このようにして国学は政治家の関心も呼ぶようになり、1792年には紀州藩主に招かれて宣長が国学を講義したりもするようになり、その名声は高まり注目を集め、多くの門人を獲得することにもなったのです。
そして1801年に宣長が死去した後、国学は没後の門人である平田篤胤によって受け継がれ、大衆に広められることとなるのです。

ただ、ここで宣長が述べている考え方は、あくまで文学論、芸術論としての国学論であり、古事記世界における天皇の統治というものをどう解釈すべきか、古来からの日本の政治思想がいかに儒学よりも優位にあるのかについて説明したというだけのものに過ぎないのであって、その結論として「ありのままの天皇像を受け入れる」という宣長の姿勢は全く政治的には受身的なものであり、何ら哲学や教訓を生み出すものではなく、「あるがままを受け入れる」という意味では、むしろ宗教や信仰に近いものがあるのです。
それがいけないというわけではなく、むしろ分かりやすい宗教や信仰的要素があったからこそ、次の時代において素朴な天皇敬慕の感情として一定数の庶民や下級武士に受け入れられることが出来たのだと言えるのです。
それは上級武士階級の持つ水戸学的な尊皇思想とは一線を画した別種の、庶民や下級武士の尊皇思想を形作ることになっていき、それが水戸学と習合していった時、時代を動かし新時代を切り開くエネルギーとなっていったのです。

ただ、この国学に基づいた素朴な尊皇思想はあくまでも文学論や芸術論に基づいた宗教感情的なもので、政治学ではないので、実際の政治の現場で使用に堪えるようなものではありません。ですから、実際に新時代が切り開かれた後は、今度はその新時代において淘汰されて消えていくことになるのです。
つまり、この国学というものは、1700年頃の幕藩国家改革期と同時進行した新文明の黎明期において生じて、胎動期を通じて成長し、この胎動期末期においてとうとうその影響力が表面化し、次の草創期において大きく成長し活発な活動を展開して新文明を準備する有力なパワーとなりながら、いざ新文明が形成される形成期以降になると、淘汰されていくべき旧文明のレールに乗り、衰退期から解消期を経て残滓期に至って完全に消えていくということになるのです。
国学は幕藩国家文明においては新文明側の要素として生じるのですが、しかしそれはあくまで幕藩国家文明を土台にして生じるものであり、次の時代の新文明側から見れば幕藩国家という旧文明由来のものなのです。あくまで「新文明を準備する旧文明由来の要素」であり、「新文明由来の要素」ではないのであって、新文明においては淘汰されるべき旧文明要素ということになるのです。
これは考えてみれば当たり前のことで、明治以降に残存してやがて消えていった幕藩国家文明の遺風とは、決して関が原直後の殺伐とした下克上の空気でもなければ、元禄時代の軟弱な気風でもなく、あくまで幕末前の文化文政時代あたりに顕著となったプレ大衆社会的雰囲気だったはずです。それ以前の気風はそもそも明治に至る前に淘汰されて消えていたのです。
同じように、幕藩国家の確立当初に消えていった旧文明の遺風もまた、鎌倉武士の気風ではなく、あくまで室町以降の、特に戦国期以降に顕著になった殺伐とした気風であったはずです。
新文明によって淘汰されて消えていく旧文明の遺風というものは、実は旧文明においては新文明を準備する要素として現れてくるのであり、国学もまたそういう要素の典型であったのです。

最後に、再度この変質期という時代についてまとめますと、この1775年あたりから1800年あたりの時期が幕藩国家変質期後期にあたるのですが、この変質期後期においては既存文明システムの限界値を超えた更なる成長を可能にする新たな文明システムを志向した社会の変質が表面化して大きな影響が生じてきて、特にその末期においてはその変質に既存文明システムが対応できなくなってきたことが露呈します。
そしてこの変質期後期と同時進行して、新文明の胎動期後期も進行するのですが、この時代は、新しい文明が社会の表面に現れてくるようになる時代で、特にその末期においてはとうとう新文明が社会への影響力を獲得することになるのです。
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