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日本史についての雑文その62  鎖国か開国か
さて、1550年から開始した幕藩国家文明という1つの文明サイクルの検証もとうとう1800年までやってきました。1552年の信長登場に対応する歴史的事件を1853年の黒船来航として、1つの文明サイクルを300年間とした前提でやってきましたから、これで残りは50年ということになります。
今までこの300年の文明サイクルを、形成期、確立期、修正期、改革期、変質期という50年ずつの時代に分けて合計250年分を解説してきました。これで残りは1800年から1850年までの50年で、つまり1つの時代ということになり、この時代が終われば、1853年の黒船来航をスタート地点として次の新文明の形成期の50年がまた始まるわけです。

この、幕藩国家変質期と次の文明の形成期に挟まれた文明サイクル最後の50年間において、幕藩国家文明は最高の繁栄を見せることになります。しかしそれは幕藩国家文明としての次の成長へ繋がるステップとしての繁栄ではなく、今まで蓄積してきた文明の成果を全て集めて大きな熟しきった果実を茎の先端に実らせて、茎は今にも折れそうになっている植物の姿を彷彿させる文明の爛熟した姿です。
修正期の50年において量の成長が極限に達した時、成長にはブレーキがかかり、その段階で蓄積されたエネルギーは改革期の50年において文明のリニューアルに向けられました。
そして変質期の50年において今度は質の成長が極限に達してそれが再び行き詰まりを見せた時、次の50年において今度はその蓄積されたエネルギーは文明の改造に向かうことはなく、そのまま重ねて量の成長に向けて放出されたのです。
そのようにして幕藩国家文明は大きな果実を実らせることになったのですが、この果実が熟しきって地面に落ちれば文明はそのエネルギーの大部分を放出し、あとは枯れていくのみとなります。そういう意味でこの50年が最後の50年ということになり、この時代を文明の爛熟期と呼ぶことにします。
ただ、だからといってこの時代を否定的に見ているというわけではなく、これは文明がその使命を終えて成果を収穫する時が来たということであり、ここで放出された文明のエネルギーは、熟して地面に落ちた果実が他の植物の肥料になるように、次の時代において新しい文明形成のエネルギーになるのであって、決して無駄に爛熟するわけではないのです。
そして次の時代が新文明の形成期であるということは、それは言い換えると旧文明の衰退期でもあるということであり、この爛熟期を終えた幕藩国家文明は次は衰退期の局面に入っていくことになるのです。

また、幕藩国家の改革期が新文明の黎明期に相当し、幕藩国家の変質期が新文明の胎動期に相当したように、この幕藩国家の爛熟期の局面においても、新文明は次のステップへ進んでくるのであって、それは胎動期の最後においてとうとうその姿を表面化させて社会に影響を与え始めた新文明がすくすく成長して社会への影響力を増してくる時期であり、この時期を新文明の草創期と呼ぶことにしたいと思います。
そしてこの草創期を終えた新文明は次の形成期に進んでいくのです。
草創期と形成期の大きな違いは、草創期においては新文明の担い手たちはまだ群像であり、個々の動きはパーツごとにバラバラでまだまとまりが無いのですが、とにかく新文明を形成するパーツの原型は出来上がっていき、形成期になるとそれはまとまって一大勢力を形成するようになり、次第に旧文明勢力を凌駕していくようになるという点にあります。

そうした幕藩国家爛熟期の始まりを告げる節目となる大事件のようなものはとりたてて無いのですが、この爛熟期が始まった頃はどんな時代状況であったのか再度おさらいしておきます。
商業資本の発達が問屋制家内工業のシステムを生み出し、それにより大衆社会が出現し、新しい庶民の学問や文化が発生したことを受けて、再び人口は増加傾向に転じ、社会は収容可能人口増加を可能とするようなシステムの転換を求めて成長局面に入りました。
それは必然的に外の世界への興味を掻き立て、外からの情報は対外的危機感の認識に繋がりました。それに併せて大飢饉への強まるリスク、武士道における公共意識の深化もまた日本を一体化したシステムとして整備していこうという中央集権化への志向も強めました。
幕府当局は中央集権化のために幕府権力の強化を目指し、新興勢力である商業資本や大衆社会、新しい学問への抑圧政策をとりますが、時代に逆行した政策は支持を失い、かえって幕府の権威の失墜を招き、新興勢力や新興の大衆文化はこれをきっかけにして、むしろ自律的な発展を開始し、幕府の政策と時代の流れとのズレが露になりました。
幕府は自らの権威回復のために朝廷の権威を利用しようとしますが、朝廷はむしろ幕府の価値観からは自律した復古的な権力を求めるようになり、幕府の意向に沿った水戸学的尊皇思想と、朝廷復古派の意向に近い国学的尊皇思想という、2種類の尊皇思想が表面化してくることになったのです。

だいたい、19世紀初頭、幕藩国家爛熟期に入った頃の状況というのは、こんな感じだったでしょう。こうした世相の中、変質期後期において国学を大成した本居宣長が亡くなり、その死後に平田篤胤が本居家を訪問し没後の門人となり、国学の伝道者として活動を開始した1801年、長崎のオランダ語通詞の志筑忠雄はケンペルの「日本誌」を和訳した際に、「鎖国」という言葉を創造しました。
実際にはケンペルの原著には「鎖国」に相当するような用語は無く、これは志筑の造語だったのですが、これはつまり当時の日本人の一人であった志筑の頭の中に「鎖国」という概念があり、それの対義語である「開国」と併せて、問題意識化されていたということの表れなのです。
もちろん志筑は長崎のオランダ語通詞という、当時の対外政策の現場の最前線にいた人物ですからそういう問題意識を持ち得たのですが、1801年の時点では志筑ただ一人が持っていたこの問題意識が、爛熟期が終わろうとする1850年の時点では日本における多くの政治家や知識人によってかなり共有されるようになっていたのです。
幕藩国家爛熟期を通して進行した事象の多くは、究極的にはほとんどがこの「鎖国か開国か」という命題に関連してくるようになるのです。この時代というのは、そういう時代だったのあり、鎖国問題はこの爛熟期の重要テーマとなるのです。
もちろん、先述したように、日本は「鎖国」などしていたわけではなく、徳川幕府がオランダとシナを相手に長崎において管理貿易によって貿易の利を独占していただけのことだったのですが、そうした管理貿易体制というものが幕藩体制の安定性を支える必須の要素であったが故に、幕府がこれを崩すことを極度に嫌い、そのため変質期後期から発生した蝦夷地におけるロシアからの通商要求に対して頑なな対応をすることになったのであり、それが志筑のような現場の人間から見れば「鎖国」的に見えたということなのでしょう。
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