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日本史についての雑文その63  工場制手工業
1792年にロシアの使節ラクスマンの根室来航を受けて、幕府も改めて蝦夷地の重要性に気づき、松平定信罷免後は再び蝦夷地の調査に乗り出しました。1798年には近藤重蔵らの調査隊を蝦夷地に派遣し択捉島まで調査しました。
その結果、ロシアが既に択捉島の北のウルップ島まで進出してきていることと、蝦夷地の北側の日本海とオホーツク海の天然資源、特にニシンの経済的価値が高いということが判明し、1799年に東蝦夷地を幕府直轄領として開発することとしたのです。

何故ニシンの経済的価値が高かったのかというと、別に食用としての需要がさほど高かったわけではなく、ニシン肥にするために必要だったのです。ニシン肥とは金肥の一種で、農民が自家製の肥溜めではなく、金を払って購入するタイプの肥料という意味です。
小魚を乾燥させたものを土中に埋めると非常に良い肥料になるので江戸時代に入ってから使われるようになったのです。従来は日本沿岸で獲れたイワシを使うのが主流だったのですが、乱獲でイワシが減少したのでイワシ肥の値段が高騰し、大量に獲れて安価の蝦夷地のニシン肥の需要が増したのです。
そういうわけで、蝦夷地のニシンなどの物産を日本本土、特に物産の集積地だった大坂に運ぶ航路が開拓されました。こういう蝦夷地の物産を運ぶ船を北前船といいまして、1799年に択捉島までの航路を開いたのが高田屋嘉兵衛という冒険商人で、彼はこれによって蝦夷地の豪商になりました。
一方、この1799年にはロシアはベーリング海峡を越えてシベリアからアラスカへ進出し、アラスカの植民地とアリューシャン列島、千島列島などの漁業や貿易、植民を行うための国策会社である露米会社が設立され、その最高責任者にニコライ・レザノフが就任したのです。
ちなみにこの年、革命後の混乱が続くフランスではナポレオン・ボナパルトがクーデターによって政権を掌握し、ヨーロッパはナポレオン戦争の時代に突入していきました。

さて、そもそも何故、ニシン肥の需要がそれほど高かったのでしょうか。金肥は確かに肥料としては優れていましたが、従来の江戸時代の米作農業は、わざわざそういう投資をして大きな見返りがあるようなものではありませんでした。
それがそれほど大量の需要が発生したということは、非常に多くの農民がニシン肥を求めたということであり、しかも安価のニシン肥の需要が高まったということは、それだけ各農家の求めた金肥の量が多かったということです。そして、ニシン肥に投資したお金が返ってくるぐらいの目算のある農業事業の条件が揃っていたということでもあります。
これは具体的には大量に綿作をする農家が増えたということなのです。綿はデリケートな作物で、十分な肥料と丹念な世話を必要とするのです。19世紀に入って綿作をする農家が全国に普及し、特に畿内や瀬戸内などで綿作農家が爆発的に増えたために、安く大量に供給可能なニシン肥の需要が増えたのです。
何故、綿作農家が増えたのかというと、19世紀に入って綿の需要が増えたからです。綿を作れば作るほど売れるようになったのです。農家から綿を買ったのは木綿製品を生産していた問屋制家内工業を取り仕切る綿問屋でしたが、18世紀の間は大量に綿を仕入れてもそんなに多くの木綿製品は作れませんでした。まず織機の性能が低く、その操作もある程度の熟練を要したからで、生産能率はまだまだ低かったからです。
ところが19世紀に入って織機が改良されて高機が導入されるようになると、生産能率が3倍ほどになり、しかも高機は操作が簡単だったので技術習得も容易になり、高機をたくさん揃えれば相当大量の綿を消費して大量の木綿製品を生産できるようになったのです。しかも高機は安価な機械だったので、多くの問屋制家内工業の現場の生産能率が改善され大規模化することになったのです。
ただ、そのように問屋制家内工業が大規模化すると、問屋から織り作業を依頼される農家の数が増え、原料供給や製品引取り、技術指導などの問屋の業務が煩雑になり、効率が悪くなってきました。そこで問屋は工場を建ててそこに織機をまとめて置いて原料や製品も一括管理して労働者を集めて一括作業をするという形態を考案したのです。これが工場制手工業の始まりです。
この1800年から1825年の爛熟期前期においては、問屋制家内工業の全国的な展開と大規模化が進展し、工場制手工業が始まったという段階です。木綿製造業の工場制手工業の場合、従来のスタイルの問屋制家内工業の場合の10倍の生産能力があったとのことですから、この時代においてもかなりの生産能力の上昇があったと思われます。その原料の綿の需要が上昇したのはそういうわけだったのです。
そして、工場制手工業を行うとなると、今までの農家のパートタイム労働ではなく工場における専従労働者が必要となり、まだこの頃は農村にそういう工業専従者予備軍というものが多く存在しなかったので労働者側の売り手市場となり労賃が上昇し、労賃で上昇したコストを埋め合わせるために原料費を下げる必要が生じ、原料にかかる経費の大部分を占めていた肥料代を出来るだけ低減するために安価のニシン肥が大量に必要とされるようになったのです。

ただ、まだこの爛熟期前期の段階ではニシン肥が全国的に十分な量が出回るほどは足りていなかったため、ニシン肥の需要が高まれば高まるほどニシン肥は高騰し、結局、肥料代も労賃もなかなか下がらずに生産コストがかかり、しかもこの時期は寛政の改革を引き継いだ緊縮財政政策の影響でデフレが進行しており、木綿製品の売値も上がらずに、なかなか工場制手工業が一気には普及していかない状況となっていたのです。ただ、それでも着実に大きな変化は始まっていったのです。
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