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日本史についての雑文その66  フヴォストフ事件
そういった状況をふまえて、この爛熟期前期の対外問題への対処を見てみます。
1799年にロシアの露米会社の最高責任者に就任したニコライ・レザノフには課題があり、それは北太平洋やアラスカのロシア植民地へ食料や資材を供給することだったのですが、レザノフはそれを日本からの輸入で調達しようとしたのです。
そういうわけでレザノフは1804年に長崎に来航して通商を要求したのです。その際、1793年にラクスマンが松平定信から貰った長崎通行許可証を持参してきたのです。レザノフとしては通商要求は叶うだろうと思っていたのでしょうけど、当時の幕臣保守派からなる幕閣は「鎖国は祖法」という理由でレザノフの要求を拒否したのです。

この際、レザノフ一行は日本人漂流民を伴ってきており、ラクスマン来航時に約束した漂流民送還のための来日は認めるという約束を律儀に守っており、しかも長崎通行許可証を持って長崎の出島に来ているのであり、非常に真っ当なやり方で交渉しようとしていたのです。
しかし、それに対して幕府の対応は非常に誠意を欠いたもので、レザノフ一行を出島で半年間も軟禁状態とした挙句、翌1805年になって一方的に通商拒否を通告し、装備も食料も底をついた一行をそのまま放逐したのです。
お陰でレザノフ一行は帰途において多数の死者を出し、怒ったレザノフはロシア皇帝に武力をもって日本に開国を促すためのカラフトや千島列島への軍事行動の許可を求めるために首都ペテルブルクに向かいましたが、その前にレザノフは部下のフヴォストフらにカラフトと南千島の日本植民地破壊を命じていたのです。
結局、皇帝の許可は出ず、レザノフも首都へ向かう途中にシベリアで病死してしまうのですが、フヴォストフらはレザノフの遺した命令に従って、1806年にカラフト、1807年には択捉島やカラフト、礼文島、利尻島などを攻撃し、日本側を敗走させたのです。幕府は大慌てで東北地方の諸藩に軍事動員をかけて、西蝦夷地も直轄地としてロシアの侵攻に備えることになったのです。

この際、江戸や京都などではこの蝦夷騒動の噂で持ちきりになりました。事件を目撃した在方商人のネットワークなどでこんな辺境の事件でもすぐに全国に広がるようになっていたのです。こういう部分でも日本という国の一体化は進行していたのです。
また有力な藩の大名家と京都の有力な公家との間には婚姻による縁戚関係が代々続いており、こうした縁戚の大名家からの情報で朝廷も事の次第の詳細を独自に情報入手できるようになっていました。
そういう事情を察した幕府は、また天明大飢饉の時のように朝廷から「申し入れ」をされては面倒なことになると判断し、先手を打って朝廷にこの事件について報告することにしたのです。
幕府としては、林子平ら先駆者たちの警告を無視してきた挙句のこの醜態であり、大いに威信が低下していたところで、東北諸藩の兵力まで動かす羽目になっているわけであり、この危機を乗り切るためには幕府への権力集中を図りたいところで、そのためには天皇の権威を利用したいという事情もありました。

これは大政委任論の有効活用ということになりますが、もともとは大政委任論は天明大飢饉の際の朝廷から幕府への「申し入れ」によって朝廷が実質的権力となっていくことを防止するために唱えられたはずなのですが、結局はこの蝦夷騒動の一件の報告によって、幕府が朝廷を実質的権力として認定したような結果になってしまったのです。
幕府独力ではこうした国家的危機の際に東北諸藩に対しての絶対的権限も行使できないのであり、やはり所詮、現実には未だ幕府の力では中央集権化は進まず自治連合国家の状態に止まっていたのです。
大政委任論は幕府による中央集権化を進めるための権威として朝廷を利用しようというものだったはずなのですが、寛政期以降の幕府の失政によって幕府による中央集権化は全く進まず、むしろ幕府の権威は低下し、それに替わって大政委任論は朝廷による中央集権化の可能性を浮上させてくる結果となったのです。
結局、この一件はフヴォストフらの単なる暴走だったのでロシアの本格的な軍事侵攻には繋がらず、大事には至らなかったのですが、これにより幕府の威信は傷つき、朝廷の実質的権力というものが発生することとなり、この一件を幕府が朝廷に通報したという前例は、後に幕末になって朝廷側が幕府の政策に口出ししてくる際の根拠として使われることになるのです。

何故幕府はレザノフの通商要求をこんな冷淡に拒絶したのかというと、おそらく蝦夷地での交易を嫌ったからなのでしょう。蝦夷地には高田屋嘉兵衛のような冒険商人など、幕府の統制に服さない在方商人がたくさんおり、ロシアとの交易が開始されれば必ずや自分たちも通商の旨味に与ろうという要求を幕府に突きつけて運動を展開してくることは確実だったからです。
しかしそれを認めてしまったら幕府にとって何ら旨味はありませんし、潜在的に外国との通商に参画したいと思っている商人や生産地の惣代たちは日本中に腐るほどいるわけですから、そんなことを認めたら我も我もと言ってきて収拾がつかなくなってしまいます。そしてそうやって自由貿易体制が確立してしまったら、もう幕藩体制は維持できなくなっていくでしょう。
そういうわけで幕府はレザノフの要求を拒絶することにしたのですが、その結果思わぬ騒動を招き寄せてしまい、逆に幕府の権威を大いに失墜させるという失態を演じてしまったのです。そしてこれに止まらず、翌1808年には長崎でフェートン号事件が起きて、幕府に大きな衝撃を与えることになるのです。
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