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日本史についての雑文その67  フェートン号事件
ヨーロッパでは1799年からナポレオン戦争が始まり、1806年にはオランダはナポレオン軍に屈して、ナポレオンの弟を国王としてフランスの属領のようにされてしまい、ヨーロッパで唯一ナポレオンに対抗していたイギリスと戦うことになっていました。
こうしたナポレオン戦争におけるオランダとイギリスの対立の構図が長崎に持ち込まれたのが1808年のフェートン号事件で、イギリスの大型軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎港に侵入し、出島のオランダ商館を襲撃しようとした事件です。

結局、フェートン号は長崎港内で暴れまわった挙句、長崎奉行に対して薪水や食料を要求し、要求が容れられなければ長崎の町を焼き払うなどという脅迫を行い、日本側は防御体制の不備のため全く為すすべが無く、長崎奉行はフェートン号の要求を受け入れる他なく、薪水や食料を提供してフェートン号に去ってもらうという屈辱を受け入れ、これを恥じた長崎奉行ら長崎の防衛責任者たちは切腹したのです。

フェートン号の目的は後年のペリーのように通商要求ではなかったので、相手側の要求を受け入れれば立ち去ってくれてそれ以上の面倒にはならなかったのですが、これでフヴォストフ事件に続いて、幕府の現存の防備体制では外国船の攻撃に太刀打ちできないということが判明したのです。
これは幕府がかつて黙殺した林子平の警告、すなわち「海からの脅威」が現実化したということであり、幕府は大恥をかいたことになります。
しかしとにかく、フヴォストフにしてもフェートン号にしてもとんでもない無法行為であることは明白であり、何らかの手を打たねばなりません。
その対処法も子平は書き残しているわけで、それは海岸線に砲台を築いて大砲で軍艦に対抗するというものでした。そこで幕府はさっそく1808年には江戸湾沿岸の砲台修築を起工しています。その後も江戸湾、特に江戸湾入り口の相模と房総の防備体制の構築に励むようになりました。

しかし、蝦夷地や長崎で起きた事件がきっかけで整備し始めた防備体制で、どうしてこうも極端に江戸湾の防備を重視するのか、いささか不自然な印象もあります。もちろん江戸は将軍のお膝元で日本の政治的首都であるのだから重視されるのは当然ではあるのですが、おそらく幕閣はフェートン号事件を見て、江戸という都市の重大な欠陥を認識するようになったのでしょう。
それは、江戸が海に隣接している都市であるが故に、圧倒的軍事力を持った軍艦が江戸湾内に侵入した場合、江戸という町そのものが脅威に晒され、江戸という将軍も居る政治的首都自体が外国船の人質のような状態になってしまうということです。
とにかくフェートン号は「長崎の町を焼き払う」と脅迫したわけですから、幕府がそれを江戸に置き換えて想像し、恐怖を感じたのは当然でしょう。
そして、もっと重大なことは、もし焼き払うまでの事態にならなかったとしても、外国船が軍事力をもって江戸湾入り口を海上封鎖するだけで、江戸という町の死命を制することが出来るということです。
江戸という町は政治的に発展してきた町で、巨大人口を擁している割には生産性が低い土地なのです。関東平野の生産性では江戸の人口を養うことは出来ません。ですから、江戸の巨大人口を食わせる食料は大坂などから船で運ぶしかないのです。江戸時代は陸上における大量輸送機関は発達を禁止されていましたから、大量の食料を運ぶ手段は船しかないのです。
ですから、狭い江戸湾の入り口、特に最も狭い浦賀と富津を結ぶ線を封鎖してしまえば、江戸には物資が入ってこなくなり、江戸の百万を超す住人はたちまち飢餓地獄に陥るというわけなのです。そうした最悪の事態を避けるために、幕府は江戸湾入り口の防備体制をまず第一に考えたのであり、浦賀奉行を設置したのです。
ただ、形としては砲台を築いて防備体制を整えましたが、この段階での大砲は相当旧式のもので、外国の商船は撃退できるかもしれませんが、たとえこの時代はまだ帆船が主体であったといっても、本格的な軍艦相手に通用するものかどうか、怪しいものではありましたが。

一方、蝦夷地におけるロシアへの対応については、こちらもフヴォストフの暴走によって通商交渉など問題外のこじれまくった紛争状態になってしまっており、1811年には日本側がフヴォストフ事件の報復として国後島でロシア軍艦の艦長のゴロウニンを捕らえ、その報復として今度は翌1812年にロシア側が国後島で高田屋嘉兵衛を捕らえるという事態が持ち上がりました。
この時は高田屋嘉兵衛がロシア側と交渉し、フヴォストフの行動がロシア政府の意向とは無関係の個人的暴走であることを確認し、その旨を日本側に伝えて人質交換によって事態を収拾することが出来ました。そしてロシア政府もフヴォストフを逮捕、処分し、蝦夷地での日露の紛争は解決しました。
この頃、ヨーロッパではナポレオン軍が1812年にロシアへの侵攻を開始し、ロシアはその対応に追われて北太平洋の問題など二の次になってしまい、その後はナポレオンを撃退した後はヨーロッパでの発言権を増したため、黒海方面への進出に精力的になり、また、国内では青年将校の反乱などもあり政情が安定せず、北太平洋問題に関してはアメリカとの協調関係が構築できたことによって解決したので、1850年代までロシア船は千島列島やカラフトには現れなくなったのです。

これでひとまず北方での紛争は解決したのですけど、今度は1820年代になってたびたびイギリス船が日本近海に出没するようになってきました。
これは、1815年にナポレオン戦争が終結して世界の海上権はイギリスが握ることになり、イギリスが東アジアへ植民地政策の魔の手を伸ばしてきた、というわけではありません。
西洋列強がアジアに大規模に進出してくるには、まだ越えなければならないハードルがありました。一つはマラリアであり、もう一つは大量輸送手段でした。
東南アジア地方に西洋人が大規模に植民していくためには風土病のマラリアが障害となっていたのです。その特効薬のキニーネが作られるようになったのは1820年のことであり、本格的に西洋人が東南アジアに進出してくるのはそれ以降で、東アジアに出てくるのは更にそれ以降のことでした。
また、外洋航海に堪えられる蒸気船はまだ開発されておらず、西洋から大量の物資や兵員、武器などを継続的に東アジアへ運んでくる技術はまだ存在していませんでした。それが可能になるのは1838年以降のことなのです。

では、この頃に日本近海に出没していたイギリス船というのは何だったのかというと、これは捕鯨船だったのです。といってもイギリス人が鯨肉を食べるというわけではなく、鯨の油が産業革命期の機械の潤滑油として必需品であったので、この頃が捕鯨業の全盛時代だったのです。
アメリカの捕鯨船が日本近海にマッコウクジラの漁場を発見したのが1820年代で、その後日本近海にはアメリカやイギリスの捕鯨船が巡航するようになったのです。このように、日本近海は18世紀以前とは全く違った様相を呈するようになり、世界中の多くの人が日本のことを知るようになり、注目するようになってきたのです。
ただ捕鯨業というのは冒険的産業で、まぁ言ってみれば乗組員もヤクザな人種が多くて、アメリカ政府やイギリス政府の意向を伝えたりとか外交や通商を求めたりとかいう面倒くさいことは要求したりはしなかったのですが、この時期はイギリスの捕鯨船員が時々日本各地の海岸に上陸して食料を求めたり、特に船乗りの病気である壊血病の治療のために野菜を求めたりすることはしばしばありました。
そうした捕鯨船の船員と接触したこの頃の日本の庶民は決して拒絶反応を示すということばかりではなく、むしろ好奇心をもって異国人を迎え、野菜を提供した見返りに捕鯨船員からお礼の品物を貰ったりして、ささやかな交易関係に入る者もいたようです。
潜在的には異国との交易を求める心情がこの時代の庶民には存在したのですから、そういう展開はむしろ当然でしょう。
ただ、中には乱暴狼藉をする捕鯨船員もいたようですし、とにかくフヴォストフとかフェートン号だとか、碌でもない無法者の襲来の苦い記憶も幕府や各藩当局者には生々しく、そしてなんといっても、そうした好奇心いっぱいの庶民の動向が最も気がかりではありました。そうした事態を放置していて、なし崩しに自由貿易体制に移行していくことを幕府当局は最も恐れたのです。
そういうところから「攘夷論」というものは生まれてきたのです。
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