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日本史についての雑文その68  尊皇攘夷思想
1820年代に相次いだイギリス捕鯨船の日本近海への出没事件を受けて、特に1824年に水戸藩領の大津浜にイギリス捕鯨船員が薪水を求めて大挙上陸した事件を受け、その際にイギリス船員との交渉係を担当した水戸藩士の会沢正志斎は1825年に「新論」を著述刊行し、これが後に幕末尊王攘夷論のバイブルとなるのです。
そして同じ1825年に幕府は異国船無二念打払令を出し、これによって幕府による攘夷政策が事実上発令されることになったのです。「新論」はこういった幕府による攘夷政策を理論的に補強する役割を担うことになりました。

会沢の「新論」の内容を要約すればこういうことになります。
「神国日本は日の神の子孫である天皇が永久に変わることなく皇位につく国柄であって、世界の頭首たる尊い地位にある。ところが西の果ての野蛮人達が我が神国を害しようとしている。大変由々しきことである。確かに昨年に大津浜にやってきたのは捕鯨船や商船の乗組員であったが、だからといって安心してはいけない。背後にある彼ら野蛮人達の軍事力と東アジア進出の方針を念頭に置いて、日本も国家防衛のために富国強兵策を講じなければならない。そして何よりも大事なのは、人民の心に国体観念を行き渡らせることである。国民を1つにまとめる中心が無いまま外夷を国内に引き入れれば、一般人はその邪悪の仲間となって天下は乱れるであろう。そうなれば天下は外夷のものとなってしまうだろう。それを防ぎ攘夷を実行するためには、天皇を中心とした神国たる日本の国体を国民が意識して、尊王の想いを強くせねばならない」

まぁ、だいたいこんな感じなのですが、大筋では非常にもっともな意見が述べられています。
大津浜での捕鯨船員との短時間の遣り取りだけで西洋列強の実力やその長期的方針を冷静に観察して正確に把握しているのは流石です。また、短期的見通しだけですぐ油断してしまう日本人の悪癖を戒めて富国強兵を唱えているのも全く正しい見識です。そして表面上の軍事力や経済力だけでなく、国家防衛のために真に必要なのは愛国心やナショナリズム、国民の一体感なのだという意見は、まさに炯眼といっていいでしょう。
国家防衛のための備えとして幕府の異国船無二念打払令によって異国船の侵入を防ぐことがまず第一に必要ではありますが、本当に必要となってくるのは、国民の一体感を支える中心としての天皇であり、途絶えることなく続いている皇室を戴く日本の国柄を国民の一人一人が自覚して尊王の志を持つことであるということなのです。そうした国民への啓蒙のためにこの「新論」が書かれたのだと考えればいいでしょう。
現状分析としてはおおむね正しいと言っていいでしょう。ただ、ここで「尊王」とか「攘夷」という言葉が使われているのは、やはり水戸学の学徒である会沢ならではということになります。これらは水戸学が重んじる朱子学において重視される価値観です。

朱子学というものが儒教の一派で、どういう内容のものであるのかについては修正期のところで説明しましたが、ここでは朱子学というものが成立してきた背景について説明します。
朱子学が成立したのはシナの南宋王朝の時代で、この南宋というのはシナ王朝の中でも最も軍事力が弱かった王朝でした。もともとはシナ全土を支配していて、その頃は普通に宋というのですが、南宋と区別するために通常は北宋といいます。
北宋は最初、北方にあった契丹族の国である遼に圧迫されて屈辱的な外交関係を余儀なくされていたのですが、終にはその遼を亡ぼした女真族の国である金に侵攻されて、華北にあった首都の開封を落とされ、淮水以北の領土を奪われ、首都を臨安に移して南宋となったのです。
北宋では支配者層や知識人は、シナが世界の中心であるとする中華思想を支配原理としていたのですが、これによって南宋においては中華思想が揺らいで、支配者層や知識人のアイデンティティが危機に瀕したのです。
そこでこの南宋の時代に生まれた朱子学には、そういった支配者層や知識人のアイデンティティ・クライシスへの対策となる要素を盛り込むことが要請されることとなったのです。すなわち、本居宣長が喝破した通り、儒学というものは現実が理想状態に程遠い場合にこそ精緻な理論体系を作り上げるのであって、まさに朱子学の草創期というのはそういう時代だったのです。
そういうわけで、朱子学で重視されたのが「家臣は王に絶対的に忠誠を尽くすべきである」という尊王思想であり、また、「非中国人は中国人よりも劣る存在であって、そのような者は打払わねばならない」という攘夷思想だったのです。それはつまり、現実には非中国人である契丹族や女真族のほうがシナ人よりも優れており、シナ人は彼らに抵抗出来なかったということであり、そうした中華思想を拠り所としていた支配者層の権威は揺らいで人民からの忠誠も期待できないという状況であるということでした。
また、南宋の時代というのは非常に商業が発達した時代で、商工業者の発言力のほうが権威の低下した支配者層や知識人よりも大きくなってきた時代でもありました。そういう現実がある故に、朱子学においては農業を第一に考えて商業を蔑視し警戒する思想が唱えられました。
そういう朱子学を官学としたからこそ江戸時代の身分制度では「士農工商」というふうに商業は一番下の扱いなのです。また、勃興してきた商業資本を嫌った松平定信が寛政の改革時に朱子学以外の学問を禁じたのも、朱子学のこうした特性が彼の目指す政策に合致したからともいえます。
このような「尊王思想」「攘夷思想」「商業蔑視思想」は、日本において朱子学を基本にして成立した水戸学にも受け継がれていたのであり、会沢正志斎の「新論」もまた、それは現実の時局について論じた優れた時務論でありながら、同時にまた朱子学的文脈での名分論という側面もあったのであり、そういう部分が読み手の発想の自由度を奪い思考の硬直を招くという側面があったのです。
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