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日本史についての雑文その69  神仏習合信仰
この朱子学の尊王思想はシナにおいては単に王への忠義を尊ぶという思想だったのですが、日本においては中華思想が日本的に解釈されて「天皇を戴く皇室という王朝が変わることなく続いている日本こそが真の中華である」ということになり、そういう文脈で天皇や皇室を尊ぶという思想になったのです。つまり日本版中華思想と尊王思想は不可分の関係となっていたのです。
会沢の「新論」以前の前期水戸学においてはそのように、尊王思想は「日本こそが中華である」という朱子学の正当性を補完する概念であったのですが、「新論」以降の後期水戸学においては、この中華思想の部分が後退して、代わりに神国思想がその位置に据えられることになるのです。

つまり日本という国家のアイデンティティが「真の中華」から「神国」に変わっているのであり、しかも天皇は「日の神の子孫」ということになっているのです。こうなると朱子学というよりは、まるで神道のような感じです。

神道とは日本古来の宗教で、本来は一種の精霊信仰だったのですが、非常に包摂力のある宗教で、複数の他の宗教を取り込んで複雑な多神教的世界観を作りつつ発展してきました。
一方、6世紀に日本に伝来した仏教も最初は神道と敵対するようなこともありましたが、平安前期までの仏教というものは支配者層の宗教であって民間にはあまり馴染みの無いもので、民間においては相変わらず神道が主に信仰されていました。
そもそも仏教というものは精緻な哲学体系なのですが、発祥地のインドからシナに伝来した時点で既に相当変容していたのですが、日本に伝来してからは更に変容していきました。特に11世紀に入って浄土信仰が発生して仏教が民間に普及していく過程で、「日本の神道の神というものは仏教の仏がこの世に現れた仮の姿」という本地垂迹説という考え方が出てきて、仏教と神道が一体化していくようになりました。
これは一応、仏が主で神が従という感じにはなっていますが、仏教が民間に受容されるためには一般庶民の宗教である神道の要素を大幅に取り入れて、仏教が神道化していく必要性があったと考えればいいでしょう。
鎌倉時代に入ると日本独自の鎌倉仏教が生まれてきて、それと同時に仏教の神道化は更に進んでいき、本地垂迹説とは逆に「仏のほうが神のこの世に現れた仮の姿」という神本仏迹説も現れてきました。
この鎌倉仏教というものが鎌倉時代に多くの信者を獲得したと思われることが多いが、実際はそうでもなく、鎌倉仏教の各派が多くの信者を獲得して真に仏教が民間に広く普及していったのは室町時代から戦国時代にかけてなのです。

室町時代に入ってから日本各地において村や町などの地域共同体が成立するようになり、それぞれの地域共同体の協同生活の精神的な中心として村の神社が作られるようになり神社神道のスタイルが形成されるようになり、またこの頃、仏教の寺院も地域社会に多く造られるようになり、「お宮」と「お寺」を通じて神仏習合信仰が地域社会を支えるという日本独自の宗教形態が出来上がりました。
これが江戸時代に入ってから制度化され、より生活に密着していくことになったのです。神道はもともと日本人のほとんどが信者でしたが、仏教に関してはこの江戸時代こそが最も多くの信者を獲得し、生活に密着した信仰が得られた時代であったといえるでしょう。
江戸時代の仏教が活力を失ったとか堕落したとか言われますが、宗教というものの本来の存在意義が、年表に載るような業績を残すことや書物や仏像を遺すことなのではなく、個々の信者の心の平安をもたらすものだとしたならば、江戸時代こそが仏教が宗教として最もその役割を果たした時代であったといえるでしょう。
神道のほうは江戸時代に入ってから神本仏迹説の流れを汲む吉田神道の吉川惟足が幕府の神道方に任じられ、神本仏迹説が主流派となっていきました。結局、仏教は全国的に定着しましたが神道が主で仏教が従という形が定着したのです。ただ、これはあくまで教義上のことで、実際の地域社会の現場においては、神仏混淆の信仰形態が定番となっていたのでした。

ところが四代将軍綱吉の時代に活躍した朱子学者の山崎闇斎という人が吉川惟足から神道を習い、垂加神道というものを創始したのですが、これは神本仏迹説を極限まで押し進め、仏教を排除して神道純粋主義を唱え、神仏習合を否定する教えでした。朱子学というものが純粋さを重要視する排他的な性格を有していたので、それが神道と習合した際にこういう化学反応を起こしたのです。
ただ、それによって地域共同体における神仏習合状態に影響が生じたということはありませんでした。こうした動きはあくまで神道界上層部の観念の世界で起きていたことだったのです。
そもそも神道というものはもともと素朴な精霊信仰ですから、教義や根本経典というものは無いのです。古事記や日本書紀というのは元来は歴史書であって経典ではないのです。ですから神仏習合宗教においては神道はその教義的な部分を仏教に依存する部分が大であったのです。
ところが垂加神道において神仏習合を否定してしまうと、神道は仏教から離れて独り立ちしなければならなくなるわけで、自前の教義や経典が必要になってくるのです。そこで目をつけられたのが古事記や日本書紀というわけなのです。
これらのうち、日本書紀は漢文でしたのでまぁ読めたのですが、古事記は何が書いてあるのか読めなかったわけです。それを解読して読めるようにしたのが本居宣長の国学でした。しかも国学はもともと日本独自の世界観の確立のために打ち立てられたものですから、古事記の解釈においても精緻な世界観を提供してくれていました。神道側にとってはそれは大変魅力的なものでした。
もともと国学は「源氏物語」や「万葉集」などの日本の古典を解読していくことで日本人の感性を発見していこうという学問であって宗教ではなく、「古事記」の研究も単に「日本最古の古典」として取り組まれていたのですが、自前の教義経典を求める神道側の事情によって、宣長以降の国学と神道とが接近することとなったのです。
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