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日本史についての雑文その70  復古神道
その橋渡しのような役割をしたのが宣長の没後の門人であった平田篤胤で、彼は1801年の宣長の没後に宣長の研究を受け継ぎ、国学を一般大衆向けに広く普及させました。一種の芸術論であった国学が広く一般庶民に受け入れられたのは、古来から日本人に馴染みのある神道的要素を採り入れたからだと思われます。国学が神道化したのだともいえます。
どうしても儒学というと武士階級の学問というイメージがあり、それに対抗して国学は庶民の学問という位置づけがもともとありました。そして国学には宣長が打ち立てた儒学批判の理論がありました。つまり「もののあはれ」の心である「やまとごころ」の「漢心」に対する優越の思想です。

国学にはもともとこういう反儒学傾向があったのですが、篤胤はこれを更に発展させて、儒学と習合したような神道を攻撃しました。これはつまり垂加神道のような神儒一体となったものへの攻撃でもあったのです。そしてその上、もともと神道界の主流は神仏習合には批判的傾向がありましたから、篤胤の神道は国学と習合することによって、儒学からも仏教からも独立した独自の宗教観を確立していきました。
その宗教観確立のために篤胤は、仏教、儒教、道教、さらには蘭学やキリスト教までも研究し、民俗学的傾向も示し、神や異界の存在に興味を示し、死後の魂の行方とその救済を中心に据えた壮大な神学体系を作り上げていったのでした。それは著しく宗教的神秘的色彩の濃いもので、古事記の神代の巻にある造化三神を主宰神として祭り上げ、その系譜に皇祖神の天照大神を置き皇室を至高神の子孫と位置づけ、日本を世界の中でも特別な存在とするものでした。これが復古神道の成立ということになります。
結局、篤胤のやったことは国学を継承し発展させたというよりは、国学の成果をも包摂した復古神道という一種の新興宗教を作り上げたことだったといっていいでしょう。
復古神道は、まさに現代でもよく見られる色んな宗教をゴッタ煮にしたような新興宗教に似ており、実際、この平田派の復古神道の流れから後世において数多くの新興宗教が生まれています。
このような伝統宗教とは一線を画した新興宗教が広く庶民に受け入れられた理由というのは、この篤胤の教えが土俗的民俗的要素が多くあり、それが農村部で受け入れられやすかったとも言われますが、それ以上に、全国経済の一体化、国内市場の形成、中央集権化への志向、対外的危機や天変地異の発生、ナショナリズムの発生など、従来の神仏習合的な地域共同体単位の信仰形態だけでは庶民の不安や不満を救いきれなくなってきていたという事情が大きいと思われます。
そうした庶民の新たな世界観を求める欲求は、既に伊勢神道の流行による伊勢お陰参りブームなどで表面化していましたが、篤胤の復古神道はその伊勢神道をも包摂して庶民の欲求に応えることに成功したのです。

もちろん伝統的な地域共同体信仰は強固に根付いていましたから、復古神道の流行によって全てが引っくり返るというわけではなく、庶民としては、従来の地域共同体の神仏混淆信仰は保持しつつ、それに加えて復古神道もかじってみようという感じだったのでしょう。
本来は復古神道は神仏習合を批判しているのですから、そういう姿勢は宗教的にはおかしいのかもしれませんが、結局、日本人の古来から保持している多神教的風土にとっては、復古神道もまた、新たに包摂される新参の神の一つに過ぎないのです。
こういう「全てを包摂する力」こそが神道というものの本質なのであって、日本人の精神世界の特徴なのです。よって、神仏習合や神儒習合のような姿こそが神道の本質であり、仏教も儒学も、そして国学もまた神道化することによってこそ日本の風土に受け入れられたのであり、それらは裏返せば神道が仏教や儒学の要素を取り入れて進化してきたということなのだと考えるのが正しい神道理解なのです。
ですから篤胤のように仏教や儒学をやたらと排斥して純粋なる神道を求めようという姿勢は本来的には神道的ではないのです。しかし神道的には間違っていたとしても、当時の時代の要請としては復古神道のような新興宗教が求められていたこともまた事実であり、それは従来の伝統的宗教が時代の要請に応えきれていなかったのが悪いのであり、復古神道側には何ら落ち度がある問題ではないのです。
例えば室町時代に地域共同体が成立し村の神社が建てられるようになって以来、一揆時の定番であった村の神社における神前の一揆勢の誓いも、この19世紀前半の幕藩国家爛熟期前期に入ると行われなくなりましたが、これも利害を共通する一揆の単位が村落単位ではなく領主関係も超えた広範囲の地域社会単位になってきたことに対応するものでした。
そして、そうした大規模化した一揆において、この時期からしばしば自らの一揆行動を「世直しの神」の思し召しによるものであるとする主張が目についてくるようになります。これは従来の村落共同体の鎮守の森に鎮座する神ではなく、むしろ復古神道的文脈に近い存在の神ということになります。
こうした新しい時代に対応した宗教的高揚は、次の幕藩国家爛熟期後期の天保大飢饉時や、その次の幕末期の混乱時、例えば「ええじゃないか」などのように、いっそう激しく噴出してくるようになるのです。
こうした新しい時代における多様な「新しい神」の一つとして復古神道も受容されたのであり、実在の存在である天皇もまた、普段その姿を見ることのない京都以外の庶民たちにとっては、数ある「世直しの神」の有力な一つとして素朴な崇拝を集めていくことになったのです。
素朴だからといって馬鹿にしたものではありません。この素朴な天皇信仰が、天皇側が明らかにおかしなことを言っている場合においても何となくその意見を完全には否定できないという幕末時の世論のジレンマを生み、そしてまた明治維新以後には頼りない維新政府に対して民衆達をけなげなほど協力的にさせ、維新を成功に導く原動力にもなるのです。
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