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日本史についての雑文その71  後期水戸学
1801年以降に成立した平田篤胤の復古神道は国学の「漢心」への批判精神を更に先鋭化した形で引継ぎ、純日本産以外の外国由来のものは何でも悪いというような排外主義の色彩を強め、仏教や儒学への攻撃を繰り返しつつ布教活動を繰り広げました。ただこういう他者への攻撃的傾向は新興宗教にはよく見られることで、特に珍しいことではありません。
このままの状態でいけば、単に19世紀前半に復古神道という新興宗教が流行し、排他的な宗教だったので各地で騒動をよく起こしたというだけのことで終わったはずです。復古神道が後に幕末や明治以降の政治に大きな影響力を及ぼすようになったのは、それが政治学と結びついたからです。その政治学とは、つまり水戸学のことであり、この問題の責任の所在はほぼ全部、水戸学の側にあるのです。

フヴォストフ事件やフェートン号事件、そしてイギリス捕鯨船の出没などの対外的危機感から「新論」は書かれました。こうした対外的危機に対応するためには、富国強兵よりも、日本の国柄を国民の一人一人が自覚して国民が一体感を持つことが大事なのだというのが「新論」の述べるところであり、後期水戸学の主張なのです。
その「日本の国柄」というものは、水戸学の元来の学説においてはもちろん「真の中華」とすべきでしょう。朱子学的文脈においてはそうなるはずなのです。しかし、この朱子学的文脈での国柄では国民の一人一人に理解させることが難しいのです。何故なら、朱子学や水戸学というものは為政者の学問として存在していましたから、一般人にはそれほど馴染みが無かったからです。
一方、この「新論」が書かれた1825年あたりになると、平田篤胤の精力的布教により復古神道が全国的に受容されつつありました。この復古神道の示す国体観は、ベースになるのが古来から日本人に馴染みのある神道世界であり、また伝統的権威である天皇への崇拝であり、しかも比較的素朴で分かりやすいものであり、外来の難解な哲学体系である朱子学的世界観よりも一般庶民には理解しやすいものでした。
国民一人一人が自覚して一体感を持つ「日本の国柄」としては、朱子学的な「真の中華」よりは復古神道の文脈での「神国」のほうが、より相応しかったのです。水戸学は一般庶民へ国体観念を徹底させるという目的のために、その国体観において朱子学から復古神道に宗旨替えをすることにして、「神国」という国体観を採用することにしたのです。

いや、こういう言い方をすると、まるで会沢正志斎が一般受けのために打算で「神国日本」を唱えたかのように思われるかもしれませんが、おそらくそうではなく、会沢自身が日本の国体としての「神国」という観念に心から賛同するようになっていたのだと思います。
既に大政委任論は会沢の少年時代には唱えられており、会沢が20歳の時に本居宣長が没し平田篤胤が復古神道の布教を開始しています。会沢の青年期・壮年期は復古神道が全国に広まっていった時期に重なっていたのです。
おそらく会沢は復古神道に接触する機会も多々あったことでしょう。そうした過程で、会沢の中では「日本は神の子孫の天皇が途絶えることなく統治する神国である」という考え方が徐々に朱子学的国体観よりも優越していったのではないでしょうか。
実際、対外的危機感が高まってくる中、全国民を一つとするための国体観がシナの思想の借り物のようなものでは無理があるのです。やはり庶民でも馴染みのある伝統的価値観でなければ国民をまとめることなど出来ないのです。
だから、打算というよりは当然の結論として本心から納得して会沢もその他の水戸学の学徒たちも、「神国日本」という国体観を受け入れていったのでしょう。それは「新論」が現実的な対外的危機に対応するために書かれた時務論である以上、ある意味当然のことでした。
ならば会沢らはそのまま復古神道の信者になればいいのではないかという考え方もあるでしょうが、それではいけないのです。この時代の新興宗教の信者になっても、それは自分の内面世界の満足で終わってしまうのであって、現実の対外的危機に対応するような政治の回路には乗らないのです。やはり政治学たる儒学の世界に復古神道の国体観を持ち込んで、方法論としては儒学的アプローチをとっていかねばならないのです。

こうして、会沢正志斎の「新論」によって、神国思想を中核に据えた後期水戸学が誕生したのです。この神国という国体観は復古神道をベースとしたものでしたから、天皇観も当然ながら復古神道の教義の影響を受けるわけで、結局この神国観は「日の神の子孫である天皇が永久に変わることなく皇位につく国柄であって、世界の頭首たる尊い地位にある」という感じになるのです。
このような神国思想は現代日本人の目から見れば狂信的に見えるかもしれないが、こういう国体観自体は別におかしくもなんともなく、世界中どこでも見られるものです。実際に日本の公式の歴史書である日本書紀においても天皇は日の神の子孫であると記されているわけですし、皇位が代々皇室の血筋で途絶えることなく続いていることも歴史的事実ですから、「日本が中華である」などという抽象的な説よりも、こちらのほうが余程、事実に即した考え方といえるでしょう。こうして日本的な尊王思想が形成されたのです。

この尊王思想自体には何ら問題は無いのです。ただ、復古神道には日本古来以外のもの、つまり外国のものをなんでも排斥するという非常に排他的な傾向があり、こういう排他的傾向も同時に後期水戸学は取り入れることとなり、それが水戸学、つまり朱子学のもともと持っていた排外的な攘夷思想と合体して、この後期水戸学においては日本的な攘夷思想をも形成することになったのです。この攘夷思想が問題なのです。
すなわち、朱子学における「中華×夷狄」という対比図式がそのまま「神国×夷狄」という形にスライドし、「世界の頭首たる尊い神国」と「野蛮で汚らわしい夷狄」という極端な対比が生じ、ここから極度に外国を蔑視し忌み嫌う排外思想が生じたのです。「新論」においても「西の果ての野蛮人達が我が神国を害しようとしている」などと酷い表現がなされています。
この極端な排外思想によって、せっかく「新論」では富国強兵策が謳われていたにもかかわらずそれは空理空論となってしまうのです。何故なら、外国に対抗できるような軍備を整えるためには、まずは外国の技術を研究し身に付けねばならないのですが、極端な排外思想によってそうした外国との接触自体をタブー視する風潮が生まれたからです。
いや、そもそも後期水戸学がベースとしていた朱子学の商業蔑視思想が問題で、実際に富国強兵をしようと思ったら外国と交易を盛んにして儲けないといけないのですが、後期水戸学では排外的攘夷思想のうえに商業蔑視思想もあるので、富国強兵は結局掛け声だけで空論となってしまうのです。
だいたい「新論」の著者の会沢正志斎自身がイギリスの捕鯨船員とはいえ一種の商人と接触しているのですから、外国との交易についても着想があってもよさそうなものですが、そういう気配は「新論」においては全くありません。それどころか、イギリス捕鯨船員とささやかな交流を持った領民たちに対して「夷狄の手先となった」として懐疑や警戒の目を向けているわけですから、会沢も朱子学的価値観を超越することは出来なかったということになります。
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あほ

【2007/11/01 14:07】 URL | 白崎 #- [ 編集]



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