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日本史についての雑文その72  異国船無二念打払令
こうして1825年に会沢の「新論」刊行によって水戸藩において後期水戸学が成立し、幕末維新の原動力となる尊皇攘夷思想が誕生したのです。
そしてこの「新論」はその内容があまりに過激であるということで幕府当局によって発禁処分となったのですが、これは外国情報をあまり一般に知らせたくないという目的と、親藩とはいえ幕臣ではない水戸藩士が幕府の政策に口出しするような内容になっていたからでした。
発禁になったからといって水戸学自体を弾圧したわけではありませんから、この「新論」に述べられているような尊皇攘夷思想は武士社会では広まっていくことになります。

「新論」の内容そのものは幕府当局としても意見の相違は無かったわけです。特にその排外的攘夷論に関しては、まさに幕府の方針と一致したものだったといえます。いや、むしろ幕府のほうがこの「新論」の攘夷論を大いに都合よく利用したといっていいでしょう。

都合よく利用したということは本心では違うということです。それは当たり前で、本気で夷狄を汚らわしいと思っているのなら長崎でのオランダとの交易も即刻止めなければならないわけで、それを平気で続けている以上、幕府の攘夷論など全く本気ではないということです。
ただ幕府としては日本近海に出没するようになった外国人と日本の一般庶民とを出来るだけ接触させたくないのです。外国人船員と一般日本人とのささやかな交易が開始されるようになれば、それは必ず自由貿易体制へと移行していき、そうなれば各大名も交易によって強大化して幕府の支配を揺るがす危険があるからです。
もちろん幕府の心配はそれだけではなく、自由貿易によって国富が失われることも恐れたであろうし、外国勢力の浸透ももちろん恐れたでしょう。フヴォストフ事件やフェートン号事件の記憶もまだ生々しかったからです。
しかし、「新論」が刊行された同じ1825年に発令された異国船無二念打払令を見ると、幕府の狙いはとにかく外国船を日本近海に近づけさせないこと、外国人と日本人との接触を妨げることを第一目的としていたと考えるしかないのです。

この異国船無二念打払令は、軍艦であろうが商船であろうが関係なく砲撃して問答無用で追い払うという方針の徹底であって、全く外国船側との話し合いの余地は無いのです。間違えてオランダ船を砲撃してもやむを得ないというお達しも出ていました。しかもラクスマン来航時に認めた漂流民の送還名目の寄航も認めないという厳しいものでした。
しかしこの法令はおかしいのです。貿易による国富の消尽を恐れているのなら、それは外国との話し合いで解決すべきものでしたし、外国からの脅威を感じているというのならこんなむやみに商船まで砲撃しては逆に脅威を増やしかねません。そして脅威への備えにしても外国との交渉にしても、その際に必要なのは外国に負けない軍事力ですが、それは外国と接触しなければ入手できません。つまりこれらの不安材料はこの法令では全く解決しないということなのです。
つまり、ここまで極端な布告を出したということは、複雑な政治外交的な思惑などではなく、とにかく何がなんでもヒステリックなまでに外国人と一般日本人との接触を阻止しようという意図であったと考えるほうが自然でしょう。それはつまり、幕府による貿易独占体制を守り、ひいては幕藩体制を維持しようという狙いであったといえるでしょう。
そしてこの極端な排外的法令を正当化するために、この後期水戸学の尊皇攘夷思想は大変便利だったのです。「新論」は発禁にはしましたが、この後、水戸学や尊皇攘夷思想自体は武士階級や大名家に広まっていき、特にその時務論や尊王論については全く正当なものであったので、それと不可分の関係にあった攘夷論もまた、武士階級の間でスタンダードな考え方として受け入れられていったからです。
この水戸学の尊皇攘夷思想を大義名分とすれば、外国船は神国日本を侵しに来た汚らわしい野蛮人の船ということになり、問答無用で打払うのが当然ということになります。幕府は神の子孫である天皇から神国を守るための権限を委任されて異国船を打払っているということになり、これに異議を唱えるのは困難になります。このように後期水戸学も異国船無二念打払令も、まだ大政委任論の思想の範疇内にあるのです。
こうして幕府は尊皇攘夷思想を巧みに利用して、外国船を追い払って幕府による貿易独占体制を守ることに一時期成功することになるのです。しかしこのようにこの後、爛熟期後期において、あえて尊王論と攘夷論を一体化する風潮を野放しにしたことによって、幕末になって大政委任論を超越した倒幕思想が生まれてくる下地を作ってしまうのです。
また、空論である尊王攘夷論を悪戯に弄んで現状維持に拘泥し、本質的な対外的危機への備えを充分にしなかったことによって、後に黒船ショックを招き、それが幕府の屋台骨を揺るがすことになっていくのです。
このように後に幕末になって幕府は大いにこの時点の安易な選択のツケを払わなければならなくなるのです。

ここでは、ひとまず1825年に「新論」が刊行されて尊皇攘夷思想が成立し、幕府による異国船無二念打払令が発令されて幕府による排外政策が始まった時点で、幕藩国家爛熟期の前期の終わりとさせていただきます。
この爛熟期前期(新文明草創期前期)という時代は、文明の積み上げてきた成果が総仕上げ直前の成熟のスパートをかける時期であり、同時にまた、変質期の末期に姿を現した新しい文明を作っていく新興勢力が外的刺激を受け、社会に影響力を行使しつつ成長していく時期でもあります。そして一方で、旧来の文明を主導してきた原理は現実への対応力を低下させていきます。

そして、その後の爛熟期後期(新文明草創期後期)においては、とうとう文明の成果が姿を現します。その文明が何を生み出す使命を持っていたのかが明らかになるのです。そして同時に、新興勢力の正体もはっきり表面化してきます。それによって新興勢力の作る新文明の輪郭も見えてくることになります。これらが劇的成長や混乱、激動の展開の中で次第に浮き上がってくるのです。時代は急激に動き出すことになります。
こうした激動や混乱は、旧来の文明の主導原理がこの時代の終わりのほうで決定的に行き詰まりを迎えることで更に加速されます。
そしてその激動の展開が更に激しくなって次の文明サイクルの形成期に入っていき、そこで旧文明の生み出した成果を養分として、新興勢力が新文明を形成していくのです。
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この記事に対するコメント

おまえ何年生だ。こんなんではちゃんとした大人になれないぞ。

【2007/11/01 14:13】 URL | 白崎 #- [ 編集]



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