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日本史についての雑文その73  化政文化
では、幕藩国家爛熟期の後期、すなわち1825年から1850年の時代、正確に言えば1853年のペリーの黒船来航までの時代ということになりますが、この時代について見ていきます。
この時代は十一代将軍の徳川家斉の時代の途中から始まります。家斉は1786年に14歳で将軍に就任しました。家斉時代の初期は松平定信の寛政の改革の時代で、1793年の定信罷免時は家斉は21歳でした。定信罷免の理由は先述のように家斉との不仲でしたが、家斉が成人して親政可能になったので定信は身を引いたという考え方も出来るでしょう。

その後は家斉は「寛政の遺老」といわれた松平信明に政務を任せました。信明は典型的な幕臣保守派で、これは要するに寛政の改革の緊縮政策を受け継いだものだったのですが、これでは幕府財政は好転しませんでした。
いや、信明も不評ながら公金貸付をしたり大名や庶民に手伝金や役金を課したりして、多少は幕府の収入も増やしたのですが、それ以上に無駄な出費が多かったのです。その無駄な出費の元凶は主に家斉でした。
家斉は政治に関しては信明に丸投げしていましたが、幕府の政策である倹約令を率先して守ろうという姿勢は見せませんでした。トップがこういう態度では倹約令など徹底されるわけなどありません。
そういうあまりパッとしない信明ら寛政の遺老の政治が延々と続いたのですが、1817年に信明が病死すると寛政の遺老は退場し、家斉は自らの側近の水野忠成を老中首座に据えて、ますます豪奢な生活を送るようになりました。この時点で家斉は45歳であり、将軍職に座って31年となっていました。

最高権力者の地位に30年もいればその人物は絶対に絶対権力化してしまいます。何故なら30年も経っているうちに政治的な補佐役達が代替わりしてしまい、その人物が最高権力者になってから政治的活動を開始したような人物しか補佐役にいなくなってしまうのです。そうなると周囲の補佐役達にとってはその最高権力者に逆らうなどということは想像もつかないことになってしまうのです。
家斉の場合も、まず定信は家斉が将軍になる前から相応の地位にある人物でしたし、寛政の遺老たちも定信が抜擢した人達でした。しかし寛政の遺老が去った後の人材は全て、家斉に逆らうことの出来ないイエスマンばかりになってしまいました。
しかも家斉の場合、この後まだ20年間も将軍に在位するのであり、大御所として実権を握った期間も含めると、この後24年間も家斉時代は続くのです。
家斉こそは徳川将軍の中で最も将軍在位期間の長い将軍であり、1786年から1841年の間の55年間、田沼時代と天保の改革に挟まれた期間の全部がすっぽり家斉時代となってしまうのです。この長期間が政治的に不毛であったことが徳川幕府にとって大きな痛手となりました。

家斉は本音では倹約令などの緊縮政策を嫌っていました。贅沢をすると小言を言われるからです。それに幕府財政が好転しないのは緊縮政策のせいであると思っていました。実際は自分の贅沢が元凶なのですが。
そういう本音はありつつも、1817年までは寛政の遺老たちに遠慮して政策変更までは言い出せないでいました。そういう次第ですから、1817年に寛政の遺老たちがいなくなって幕閣が家斉のイエスマンばかりになったことによって自然に緊縮政策は撤回されて緩和政策に転換されることになったのです。
1817年以降は倹約令は撤回され、倹約しないのであれば緊縮財政政策を採る意味も無いので、積極財政をしなければいけません。つまりデフレ経済からインフレ経済に転換するということであり、貨幣改鋳によって貨幣流通量を増やすことになりました。
こうして貨幣改鋳によって発生する差額が益金として幕府に入ってくることになり、次第に幕府財政の収入の半分はそれで賄われるようになってきましたから、1820年代になると寛政遺老時代に散々不評を買っていた公金貸付や手伝金や役金などの実質的な増税措置をわざわざ実施する必要は無くなりました。それらの措置が全て廃止されたことによって実質的には減税が行われたことになり、それが庶民の経済活動を刺激して好景気が到来することになるのです。

これによって田沼時代に発生した大量生産、大量宣伝、大量消費の大衆社会が復活して大発展し、そして大衆文化が大きく花開くことになりました。いわゆる化政文化といわれるものですが、田沼時代に表面化したもので、その後幕府による取締りやデフレ経済の圧迫を受けながら、それでもじわじわ発展してきていたものが、ここに来て好景気を背景に一気に大成したのです。
この時代の文化を見てみると、例えば文学作品などでは意外に後世に残るような文学性の高いものはあまりありません。むしろこの時代の前の時代、つまり権力による規制の厳しかった時代のほうが文学性の高い作品が多いのです。
これは、規制が厳しいほうが必然的に内容が真面目なものになるというのもあるでしょうし、規制をかいくぐるための創意工夫によって思わぬ傑作が生まれることもあるのでしょうけど、やはり規制が厳しいとクリエイティブな作業環境があまり商業主義に毒されないというのが大きな要因でしょう。
逆にこの爛熟期後期、つまり化政文化期においては、規制が緩くなったということは商売として成立するということですから、クリエイティブな作業環境が商業ベースで進められるようになってしまい、とにかく売れるものを作るのが優先されて、じっくりと芸術性や文学性を追求する余裕が無くなってくるのです。これは現代社会のクリエイティブ環境にもそのまま当てはまる話ではありますが。
そういうわけでこの化政文化は後世の人間から見ると意外なほど作品的には不毛に見えるのですが、それは後世に残るような作品というものは同時代的には無名であることもよくあることで、特に文学や絵画などにはそういう傾向があります。ですから後世の人間が勝手に不毛だと思っているだけで、当時としてはまさに百花繚乱状態であったと思われるのです。
それは、まさに商業ベースに乗った大衆文化そのものであり、書斎で芸術家が内面世界を吐き出すような自閉的なものではなく、庶民の生の生活と連動したオープンで生き生きとした文化だったのです。

文学作品でいえば大衆受けする滑稽本や人情本を主体とした、いわゆる絵草紙屋で扱うような薄い絵入りの読み物ということになりますが、特にこの化政文化の特徴となるのは歌舞伎や人形浄瑠璃、芝居、寄席、旅行などの庶民の商業的娯楽がそのまま文化になっていることです。
例えば歌舞伎などは、現在においても上演されている歌舞伎の演目の多くはこの時代以降に作られたものであり、この爛熟期後期の初頭1825年には鶴屋南北作の「東海道四谷怪談」が初演されています。歌舞伎や人形浄瑠璃などのような観客との真剣勝負の中で磨き上げられるような商業文化の場合は、同時代的に人気を博した作品がそのまま現代に名作となって残るのです。
また、この時代は旅行ブームが起こり、全国各地の名物や名品などの情報のニーズが高まりました。それに応えるために名所案内の絵図なども売り出されようになり、その挿絵として浮世絵の名所絵が発達することになりました。安藤広重の「東海道五十三次」や、葛飾北斎の「富岳三十六景」が有名ですが、これも現代においては芸術として祭り上げられてますが当時は全くの商業ベースの作品であったのです。
またこの時代の旅行ブームは非常に重要です。庶民が安心して全国を旅行できるようになったということ自体、江戸時代になってから初めて生じた現象なのですが、大部分の庶民がレジャーとして旅行にいそしむ余裕が生じたのはこの化政期になってからでした。
この時代はテレビや新聞のような便利なものはありませんから、情報や文化の伝達は人間の移動によって為されるのです。だから旅行ブームによって多くの人間による情報伝達網が全国に張り巡らされることによって文化水準の均質化が達成されたのです。
例えば歌舞伎や人形浄瑠璃、芝居、相撲興行なども、旅行ブームによって盛んに地方巡業が行われるようになり、また、旅行するのは一般人だけではなく学者や文化人なども盛んに地方に出かけ、地方を生活基盤として活躍する文化人も増加し、こうして文化は江戸や大坂のような大都市限定のものではなく全国規模のものとなっていったのです。

こうして大衆文化が全国的に拡散していき、そしてその内容は非常に大衆の興味を惹くような商業ベースのものなのです。滑稽本や人情本なども下世話ではありますが、薄手の本で安く手軽で庶民が片手でパラパラと読むのに適していました。
分厚くて内容の濃い本が素晴らしいとは限らないのです。そういう本は一般庶民は敬遠して読みません。読んでもらえなければせっかくいいことが書いてあっても宝の持ち腐れです。やはり普及版の手軽な書籍というものは文化の普及のためには不可欠なのです。
書籍だけではなく、化政文化というものは全体的に文化の普遍性や普及力という点で非常に優れていたといえます。非常に手軽で庶民の興味を惹く内容に満ち溢れていました。こういう性格を有した文化が全国的に均質に普及していったのです。
そうなるとどういうことが起きるのかというと、より多くの庶民がより多くの文化や情報に触れたいという欲求を爆発させることとなり、それが1830年代の寺子屋の全国的な爆発的ブームとなって現れたのです。
これによって日本の一般庶民の識字力や演算能力などの基礎的学力は世界最高水準に達することになり、これが後に明治維新以降の地方における維新政策の実施をスムーズにし、明治期の殖産興業や富国強兵政策、民主主義の進展において重要な基盤として機能してくるのです。
寺子屋というものは現代の学校制度とは大きく違い、地域社会と密接に関わった徹底した少人数教育を学年別になどせずに縦の繋がりを重視しながら行うようになっており、教わる側としてはこのほうが得るものが多いのではないかと思います。思うに、近現代の学校教育というものは、教える側や運営する側の効率にばかり配慮しすぎたものではないかと思うのです。

現代の人間がいわゆる「江戸文化」としてイメージするものは実はこの化政文化のことなのであり、まさに江戸時代の文化の集大成はこの商業主義の中で大衆文化として為されたのです。後世の人間の視点では芸術性や文学性が低いなどという目で見てしまいがちになりますが、この大衆への分かり易さや訴求力や浸透力の強さは後世に大きな遺産を遺すことになったというわけなのです。
江戸幕藩国家文明が作り上げる使命を持っていたものの重要な一つは、この大衆文化や庶民の知力であったのではないかとも思えるのです。これらはこの時代においてはそれほど大きな意義のあることを為したわけではないのですが、後に明治維新後に重要な役割を果たすことになるのです。
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