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日本史についての雑文その74  大御所時代
さて、1823年に家斉の実父の一橋治斉が死去すると、もうこれで家斉を制止出来る人間は存在しなくなり、家斉の贅沢や無駄遣いは歯止めが効かなくなりました。とにかく家斉本人だけでなく側室も40人以上おり、子供も55人と膨大な数となり、それらも皆、贅沢をするわけですから、その養育費や生活費も膨大なものになりました。
そうやって支出が増えれば収入も増やさねばならないわけで、この爛熟期後期に入ってからも貨幣改鋳は何度も繰り返されることになり、その度に貨幣流通量は増えてインフレが進行していきました。

インフレになると物価が上がりますから、工場制手工業で作った商品の価格も上がります。つまり工場制手工業で木綿製品などを大量生産すればするほど商品が高く売れて儲かるわけです。爛熟期前期において工場制手工業の伸びを抑制していた要素は商品安と肥料高と労賃高でしたが、これで商品安は解消されたわけです。
そしてインフレによる物価高騰は木綿製造などの事業にも手を出すような富農層には有利に働きますが、一方では貧困層の農民の生活を更に困窮させます。そうして貧困の余り土地を手放して農業から離れて工場制手工業下の専従労働者になる者が増えてきます。そうなると労働者予備軍が増えるわけですから労働市場は買い手市場になり、労賃は下がります。これで労賃高も解消しました。
更にこの爛熟期後期になると蝦夷地のニシンが多く市場に出回るようになりニシン肥の需要が満たされ、ニシン肥の値段が大幅に下がります。これで肥料高も解消されました。
もちろんインフレが進行していくにつれて労賃も肥料代も上がっていったのですが、それを相殺する程度には基本的な値段は下がっていたのです。そしてなんといっても貨幣改鋳の益金収入によって幕府が大幅な減税措置をとったことによって、多少労賃や肥料代が上がったとしても工場制手工業の事業主である富農たちは十分に利益を上げて経営を続けることが出来たのです。
また、このインフレをもたらした貨幣改鋳による通貨流通量増加は、工場制手工業で出来上がった商品の流通する国内市場の成長を支えることにもなったのです。それも工場制手工業の事業主にとっては有利に働いたのです。

こうして工場制手工業は各地に広がっていきました。
そして工場制手工業の普及による大量生産システムの発展は構造的に、管理貿易体制と幕藩体制の変革を潜在的に求める商人層を増大させることになりました。管理貿易体制は原材料の更なる大量入手の妨げとなり、幕藩体制は労働市場の更なる拡大の妨げになるからです。こうした変革への潜在的欲求は、後に黒船来航後の社会の激変を庶民レベルではむしろ肯定的に受け止めて前向きな対応をとらせることになるのです。
また、工場制手工業者の社会的地位の向上は、各藩の行う専売制との確執を深めていくことになり、商品の直売りによる高値販売を求めて専売制による安値販売制度への異議申し立てのための集団訴訟や一揆も頻繁に組織されるようになっていきました。ただそれは革命運動に発展するようなものではなく、権力側と妥協点を探って共同で新たなルールを模索していく動きであるという点で高度に政治的なものでありました。こうして地方レベルで庶民の間で政治的スキルが蓄積されていったのです。これは後に明治維新後の各地での維新の活動の原動力となり、また自由民権運動にもつながっていきます。

こうした明治期以降の政治的基盤だけではなく、この時代の農商業の発達は明治期以降の経済発展の基盤も形成していきました。もちろん資本の蓄積や国内市場の形成も重要な基盤となったのですが、ここでは経済思想の部分について触れたいと思います。
明治期の日本の近代資本主義形成においては士族の果たした役割が大きいのですが、その背景となった時代精神の起源がこの幕藩国家爛熟期後期にあるのではないかと思われます。それを象徴するこの時代の人物が二宮尊徳です。尊徳は相模国の貧しい農民出身の農政家で1822年以降は小田原藩に登用されて財政立て直しなどを行った人物です。彼が説き広め実践した独特の経済学説を報徳思想といいます。
それは神道と仏教と儒教の独自の解釈と融合に彼自身の農政における経験則を合わせて編み出した生活の知恵で、善悪を価値判断とするのではなく、私利私欲に走らずに社会に積極的に貢献していく至誠の精神状態を維持し、その心に沿った勤労を実践し、その勤労の結果の報酬のうち必要な分だけを使い、分に合った生活を送り、残った分は拡大再生産のための投資に充てるという、これら一連の生き方をすることで徳が徳によって報われて、利益は自らに還元され、人間は物質的にも精神的にも豊かに生きられるのだという教えです。
この経済と道徳を融合して勤勉と倹約を持続的な経済発展も可能な形での合理的な方法論に高めた考え方には多くの賛同者が生まれ、各地に広まっていきました。
この報徳思想の特徴は神道や仏教や儒教などの各宗教からは相対的な距離を置き、究極的な真髄に至る異なる道に過ぎないとしている点です。その真髄とは上記の生活実践の中で徳が徳によって報われていくことを見極めていくことで人道を極めることにあるのであり、道徳的な善悪判断を論理的判断の中核には置いていません。つまりこれは宗教ではなく道理なのです。
この報徳思想は難解なもので、賛同者も多かったのですが理解を示さない人ももちろん多くいました。ただこのように道理が宗教に優越するという姿勢は多くの日本人に共通していたのであり、宗教を超越したプラグマチックな教えによって資本主義的発展を積極的に肯定していく社会思想がこの時代の日本で広く許容されていたということは重要で、こうした考え方が明治期以降の近代資本主義を積極的に受け入れる下地となったのです。これもまた江戸時代の日本が結実した一つの到達点でした。
もちろん道徳とは善悪を明らかにすることであり、善悪の基準は神仏儒のような伝統的宗教に基づくものなのですが、時代の変化につれてそれらの善悪の価値観が形式的になりつつあるのも確かで、そこから一歩退いて、公共への貢献を重視する状態を「誠」として、「誠」の有無によって徳の大小とするという考え方は、シンプルで幅広く受け入れやすかったといえるでしょう。
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