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日本史についての雑文その75  幕藩体制の行き詰まり
幕藩国家爛熟期後期に入ってから年貢増徴をせずに幕府財政の収入を増やすために貨幣改鋳政策がとられ、それによって貨幣流通量が増えてインフレが進行したことによって物価が上昇しました。
物価が上昇すると物を買う時は損した気分になりますが、物を売る時は得した気分になります。大抵の人間は消費者であると同時に生産者でもありますので、インフレになっても、それが余程極端なものでなければそんなに致命的な打撃は受けないのです。
ところが江戸時代の日本においては特殊な階級の人間が多数存在したのです。それがつまり、生産を一切せずにひたすら消費だけする武士階級というものなのです。これについては荻生徂徠が指摘してきた通りです。この武士階級はインフレによる物価高の影響をモロに受けるのです。

これはよく考えれば変な話で、幕府というものは武士階級の守護者でなければいけないはずなのに、その幕府の財政再建のための貨幣改鋳政策が回りまわって武士階級を困窮させることになるのです。このとんでもない矛盾は、まさに荻生徂徠の指摘していた幕藩体制下における「武士生活の矛盾」というものが市場経済の成長によっていよいよ深刻な病状を呈し始めてきたということなのです。

とにかくそういうわけで、この爛熟期後期のインフレは領主経済を直撃し、各藩は財政難に陥りました。財政難をカバーするためには借金して不足分を補わねばいけませんが、各藩は主に大坂商人から借金しました。
当然借金は返さなければいけないのですが、もちろんお金では返せません。そんなことが出来るぐらいならそもそも借金はしません。ですから借金の返済や利子の支払いは米を大坂商人に送ることで充てられました。各藩は年貢米が主な財産でしたから。いや、そもそもそういう形の支払いを受け付けてくれるからこそ大坂商人から借金していたのです。
こうして各藩から米が大坂にどんどん送られて大坂では米が余った状態になり、大坂で米価はどんどん下がることになりました。全国の米は大坂から廻送されますから、大坂で米価が下がるということは全国的に米価が下がるということです。
米価が下がると、畿内や瀬戸内などで木綿製造業のための綿を栽培している農家が助かります。彼らは綿作が主になっていて年貢米は購入した分を充てていたからです。米価が下がればその分は綿作で儲けた金が目減りしないで済むのです。その余剰分を更に綿作の拡大のほうに投資することも可能となったのです。
このように米価の下落は工場制手工業の発展を下支えする効果があり、工場制手工業の発展は国内市場の成熟をもたらし、直買いや直売りを行う在方商人の活躍によって市場の多元化を促し、1830年代以降には各藩も大坂商人を経由せずに直接在方商人に米を売ったりするようにもなりましたが、結局こうして藩が米を放出し続けることによって米価が下落するという傾向は変わりませんでした。
米価の下落は工場制手工業の発展には有利に働いた反面、武士階級にとっては不利に働きました。米は武士階級の唯一の財産でしたから、その値段が下落するということは武士階級の財産が目減りするということでした。
そういうわけですから、各藩は借金返済のために米を上方に廻送することによって米価の下落を招き、それによって更に借金を増やすという悪循環に陥っていきました。こうなってくると年貢米収入だけを当てにしている限り、各藩は借金地獄から抜け出せないということになってきます。

そこで各藩においても特産品や原料作物の販売や工場制手工業に手を出そうという傾向が強くなってきます。そうなると藩は領主権力を持っていますので、権力を行使して領内の原料を安く買い叩き、安く売ろうとします。何故安く売ろうとするのかというと、武士階級が買いやすいように物価上昇を抑制するためです。これが藩による専売制です。
しかし作物を安く買い叩かれてしまう領民は不満を持ちますし、藩が産物や商品の販売を独占してしまい、しかも販売価格を安く固定してしまえば領内の工場制手工業者など生産や販売の従事者は全然儲けられないわけですから、大変不満が貯まります。
農村で問屋制家内工業や工場制手工業で商品を作ったり、その原料作物を生産したりしつつ、米を買って年貢を納めるというライフスタイルを送る階層にとっては、財産を増やしていくための重要な条件が「物価高」と「米価安」なのです。
藩による専売制というものはこのうちの「物価高」という条件を脅かすものでしたから、この時代の農民たちの強い反発を招いたのです。そういうわけで専売制の撤回と商品の自由販売を求める百姓一揆が各地で頻発することになりました。この専売制に対する農民の反発は強烈なものがあり、専売制の撤回を余儀なくされた藩も多くありました。専売制の撤回を余儀なくされてしまった藩は結局はまた、いくら安くても米を売って借金を返済していくしかなくなってくるのです。
だいたい専売制を撤回させられてしまうような藩というのは商業資本が発達していて農民や商工業者が武士階級よりもかなり力を持っているような畿内や関東、東海などの先進地域に多く、逆に九州や四国など西南の僻地にある藩のほうが商業資本の発達が遅れており、相対的に藩権力のほうが強く専売制を維持できるところが多かったのです。これが西南雄藩が藩政改革を成功させて幕末の政局のカギを握るまでに成長する遠因となるのです。
これは皮肉なことで、家康の大名配置がここにきて仇になってきたといえます。家康は徳川家に忠誠の厚い大名を日本の先進地域に配置し、外様の警戒すべき大名は西南の僻地に追いやったのです。それがこの幕末近くになって外様の雄藩を利することになってきたのです。
一方、専売制も思うに任せず米で借金を返し続けることになった畿内や東海の徳川譜代の藩などでは、どうしようもなくなって領民から年貢の前借りをするようになることも多くなりました。これはつまり領主が領民に借金をしているようなもので、そこまで力関係が逆転していたということです。この場合、借金を返すまでは領地の経営も実質的には村役人が代行するようになり、ほとんど領主が有名無実化してしまっていたのでした。

そういう状態のところに天保大飢饉が襲ってきたのです。
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