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日本史についての雑文その76  天保大飢饉
1832年から1838年にかけて起こった天保大飢饉は、18世紀半ばから続いていた世界的な小氷期末期の気候不順をきっかけにして引き起こされたものですが、それはあくまできっかけであり、本質的な原因はもっと構造的なものです。
まず農村の疲弊があります。貨幣改鋳政策がもたらしたインフレによる物価高が貧困層の農民の生活を圧迫し、農地を手放して都市へ流入してくる者が増加したのです。市場経済と大衆社会の発達によって都市は栄えており、都市へ出てくれば華美な生活が出来ると思う者も多くいましたし、実際都市に出てくればその日暮らしであればなんとか生活できてしまうようにはなっていましたので、都市には長屋に住んで日銭を稼ぐような階層が増えていました。

また農地を耕す者の中でも、綿のように食物でないようなものを作る農家が増えており、食料が不作になった時にそのショックを吸収できる余裕が失われつつありました。
そして人口が18世紀末から増加傾向に転じていました。しかし日本が管理貿易体制のまま閉じられた状態である限りは、日本列島の収容人員は3千万人程度であるという点は変わっていないのです。その危険水域に再び人口が近づきつつあったのでした。
このように飢饉リスクは再び高まっていたのでしたが、しかしなんといっても特に構造的に問題であったのは、畿内や東海の農民が綿を作って米を買うというスタイルに切り替わっており、これらの地域に大量の米のニーズがあったことと、大名による借金返済のための上方への廻米の慣習でした。

1832年から7年連続で冷害のため凶作が続き、特に東北で被害が大きかったために米作に大打撃が生じ、大飢饉が発生し、全国で多くの人が被災しました。
この天保大飢饉については幕府は前回の天明大飢饉の教訓によってそれなりに適切な対応をとることが出来、また各藩に備荒対策を命じておいたのが功を奏して、大規模な飢饉であったにもかかわらず、天明大飢饉の時よりは少な目の被害で食い止めることが出来ました。それでも数十万人が死亡しましたが。
特に東北地方で多くの被害が出たのですが、これは畿内や東海の農民が年貢米を東北からの買米で納めるという国内市場の構造が固定化していたため、凶作であるにもかかわらず大量の米が東北諸藩から流出していって領民を救済するための米のストックが無くなったからでした。
また、飢饉の影響で米価が急激に高騰し、財政難に陥っていた東北諸藩は上方に高く米を売って借金返済をするチャンスと見て、大量に上方への廻米を進めたのです。つまり天明大飢饉時にも見られた「飢餓輸出」が再び繰り返されたのです。しかも今回のほうがより構造的に引き起こされることになりました。
市場経済が発達してきているのに相変わらず政策として米中心経済を続けようということ自体の無理が極限に達しようとしていたのです。このやり方を続けている限り、飢饉のたびに飢餓輸出は繰り返されるでしょう。

これにより東北地方では多くの餓死者が発生し、領民は生きるために土地を離れて逃げ出しました。これによってますます農村人口は減り、農村は疲弊していきました。そうなると年貢収入も減るのでますます幕府や藩は借金をしなければならなくなり、それは結局、上方への飢餓輸出で返済するという悪循環に嵌っていきました。
東北から逃げ出した農民達は江戸に多く流れ込みその日暮らしをするようになり、ますます都市人口が増えて飢饉リスクを高めることにもなりましたが、また多くは農業から離れて工場制手工業の専従労働者となっていきました。これにより労働者が増えて労賃が下がることになり、工場制手工業が更に発展する要因となりました。
そしてまた東北から逃げ出した農民の多くは蝦夷地に移住してニシン漁で生計を立てるようになり、ニシンの漁獲量が飛躍的に増えました。これによりニシン肥の値段も下がり、大量の肥料を必要とする綿作農家に有利に働き、綿の更なる大量生産と低コスト化が可能になり、木綿製品を作る工場制手工業者は大量の原料を安く仕入れることが出来るようになり、これもまた工場制手工業者に有利に働いたのです。こうして天保大飢饉の後、工場制手工業は全国に普及していったのでした。
このように天保大飢饉は、武士階級や領主経済には不利に働いた一方で、工場制手工業者やそれに関わる商業資本階級には有利に作用したのです。これにより特に商業資本が発達していた先進地域の藩は借金が膨れ上がりますます商人から借金をしたり、領民から年貢を前借りするようになり、完全に力関係が逆転するようになっていったのです。

一方、米価の急激な高騰は武士階級には有利に働き庶民には不利に働いたはずです。武士階級は米を売る立場であり、庶民のほうは、この時代においては農民も含めて年貢米納付のために米を買うことが多くなっていたからです。
例えば畿内の自作経営で綿作をしている農家などは綿を売った金で米を買って年貢を納めていたわけですが、米価が高騰したからといって年貢米の量が減るわけではありませんので、年貢米を納めるために払うコストが大幅に増えることになります。そうなると大赤字になってしまうわけで、赤字解消のためには綿の売値を上げるしかないわけです。
そうなると工場制手工業者としては原料費が上がるわけですから、仕上がった木綿製品を高く売らなければいけなくなってきます。その場合に障害になるのが藩の専売制や大都市の問屋を通した幕府による物価統制だったので、それらに抗議して商品の高値販売を求める百姓一揆が多く起きるようになりました。

しかしこれは序の口に過ぎなかったのです。こうした一揆の主張が通った場合、ただでさえインフレ傾向で物価高であった商品価格が更に上がることになりましたし、それによって自作経営をしている富農層や工場制手工業を経営する商業資本階級は儲けることが出来ますからそこで抗議は終わり米価も高いまま据え置かれたままになります。また、もしこの一揆の主張が通らずに商品の売値が低く押さえられることになった場合は、事業者は労賃を下げたりリストラをすることで経営を維持するしかなくなるのです。
つまり、どっちに転んでも小作農や労働者などの貧困層の庶民の生活は圧迫されることになるのです。こうして農村内部でも富裕層や村役人層と、貧困層との間に微妙な利害対立が生じることになり、農村の地域社会の総意の最大公約数的な要求は、結局は米価の値下げ要求に収斂していくことになりました。
一揆を主導する村役人層も、地域社会の広範な支持が無ければ一揆の主張の正当性を確保することが出来ないわけですから、貧困層の意見も取り入れざるを得なかったのです。こうした地域社会内の地道な利害調整作業を通して農村内の村役人層を中心とした政治能力は格段に進歩することになり、明治維新後にこれが村の維新を進める原動力となり、自由民権運動の下地にもなるのです。

とにかく、こういうわけで天保大飢饉時には米の安売りを求めるタイプの百姓一揆が増加することになったのです。これによって天保大飢饉時の百姓一揆の発生件数は空前の伸びを記録することとなりました。
しかし米の安売り要求といわれても、領主も米問屋も別に私腹を肥やすためにむやみに米価を吊り上げているわけではなく、米価高騰は、市場経済の成長した中で時代遅れの幕藩体制下の米中心経済システムが未だに実施されていることによる構造的問題だったので、そんな簡単に米の安売りなど出来るものではないのです。
だが、そうだからといって貧困層の農民の不満が収まるはずもなく、それならばというわけで腹いせに米商人の商家や富農や村役人の家に懲罰を加える打ち壊し一揆が激発するようになりました。
この打ち壊しに参加した一揆勢は自らを「世直し神」と呼称し、厳格なルールを守り、あくまで正義の懲罰を間違った世の中に対して下すというスタイルをとりました。その主張の正当性はともかく、とにかく一揆の目的が特定かつ具体的な経済的目的ではなく、社会矛盾に対する不満表明というスタイルになっているのが特徴的であり、この天保大飢饉以後の百姓一揆や打ち壊しの多くはこうした貧農や都市貧困層などによる「世直し一揆」のスタイルをとるものが多くなります。

つまり、ここにきて社会矛盾がハッキリと表面化してきたのです。既存の社会システムでは現状の問題に対応できなくなってきつつあったのです。その象徴が「世直し神」という既存の伝統宗教とは異質の異形の神の出現でした。それが後に天照大御神や天皇のイメージにも結びつき、社会変革の拠り所にもなっていったのです。
爛熟期の終末になってくると、こうした伝統的な価値観とはちょっと異質な価値観が出てきて、それが新しい文明を切り開いていくことになるのです。但し、それがあまりに野放図に行き過ぎた場合、伝統や慣習が破壊され、文明の連続性が途絶えてしまうのです。ですから、伝統はその間にも保持されて新文明の中で消化吸収され、改革期になってまた復権されなければならないのです。
この「世直し」のエネルギーは後に明治維新で解消されるわけではありません。むしろその後にも活発に活動し、外来の民主主義思想と習合して、近代日本の社会変革のエネルギー源となっていくのです。そしてそれによって日本の伝統は圧迫されていくことにもなるのです。
そういう意味でも、この「世直し」の風潮は確かに危機的状況の始まりといえるものでした。そしてそうした状況の到来が幕府首脳の目にも明らかに分かる形で示されたのが1837年に起きた大塩平八郎の乱だったのです。
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