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日本史についての雑文その77  内憂外患
1837年に大坂で兵乱を起こした大塩平八郎は大坂町奉行所与力を務めたれっきとした元幕臣で、高名な陽明学者でありました。
天保大飢饉の被害は大坂にまで及び、大坂でも餓死者が出る有様でした。大塩は既に町奉行所与力を退役して私塾で門人に陽明学を講義する毎日を送っていたのですが、こうした現状に心を痛めて奉行所に数々の提言を行いました。
最初は江戸への廻米の中止と、奉行所で保管する蔵米を窮民救済のために放出することと、豪商による米買占めを止めさせることを提言したのですが、聞き入れられませんでした。

米不足と米価高騰は構造的問題でしたから、これらの提言を実行したからといって根本的な解決になったとは思えませんが、しかし目前の餓死者を救うことは出来たはずです。大塩は別に高度な政治的判断ではなく、ただ窮民の側に身を置いて、武士として為すべきことを為すべきだと提言したに過ぎないのです。
提言を退けられた大塩は今度は自分や門人の禄米を担保に豪商から大金を借り入れ、その金で米を買い窮民に分け与えようとしましたが、これも奉行所の妨害で阻止され、仕方なく私財を売って得た金で窮民の救済活動をしました。
陽明学では「知行合一」が最も尊ばれます。「知って行わざるは知らざるに同じ」といわれ、認識と行動は一直線に繋がっていなければならないのです。数々の提言もこうした献身的な救済活動も、大塩にとっては当然の行動だったのでしょう。
そして大塩の中の認識は、武装蜂起によって奉行や豪商を討つしか根本的解決の道は無いという地点に至り、それもまた一直線に行動に繋がっていったのです。すなわち大塩は門人や支持者に軍事訓練を施し、町民からも参加者を募り、挙兵して奉行や豪商を誅罰して、それらの蔵から金や米を奪い窮民に分配する計画を立てたのです。

この大塩平八郎の乱は結局、密告によって中途半端な挙兵を余儀なくされましたが、それでも300人ほどが参加し、大坂市中の5分の1を焼き払った後、豪商を焼き討ちして金や米を窮民に分け与えた後、1日で鎮圧され、後日、大塩も自害して果てました。
この大塩の乱もまた、「義によって立った」という形の、御政道への異議申し立て、すなわち「天下への忠義」という武士道の発露であると考えることも出来ますし、同時期の百姓一揆と同じく「世直し一揆」の一種と捉えることも出来ます。
しかし、この大塩の乱が他の「世直し一揆」と根本的に違っていた点は、殺人を厳格に禁じた単なる抗議行動に過ぎない百姓一揆とは違い、この大塩の乱は、元幕臣であるれっきとした武士が農民や町人を組織して武装蜂起して、奉行所を攻撃して奉行や役人の殺害を謀り、奉行所からの物資の略奪も計画していたことです。これはれっきとした反乱であり、革命にも繋がりかねないものでした。
もし、こうした兵乱の動きに貧困層の「世直し一揆」の動きが結びつくようなことがあれば、幕藩体制は一気に崩壊しかねません。大塩の乱を受けて、幕閣の多くはそう考えて戦慄することになったのです。

大塩平八郎の乱のあった1837年に十一代将軍の徳川家斉は将軍職を息子の家慶に譲りました。実質的にはこの後、1841年まで家斉は大御所政治を行い実権を握り続けるのですが、この新将軍の家慶に対して、翌1838年に水戸藩主の徳川斉昭は内憂外患を説きました。
斉昭は1829年に会沢正志斎や藤田東湖など、比較的身分が低い後期水戸学の立役者たちの応援を得て水戸藩主に就任しました。藩主となった後は会沢らを登用して藩政改革を実施し、水戸学の尊皇攘夷思想を広めていきました。
そういう斉昭でしたから内外の問題に深い興味を抱いており、将軍家慶に説いた内憂外患のうちの「内憂」は、間違いなくこの大塩平八郎の乱や世直し一揆の多発を受けてのことだと思われます。
会沢の「新論」の論立てを見ても分かる通り、後期水戸学においてはまず「外患」の脅威が意識され、それに対抗していくためには国内をまとめなければならないということになります。その「外患」がまさに迫っている時に、国内が乱れていては一大事だということになります。そういう意味で大塩の乱などはいっそう深刻な「内憂」として意識されることになるのです。
こういう部分を見ても、後期水戸学があくまで秩序維持のための政治学であり、革命イデオロギーではないということが分かります。

では、その斉昭の言う「外患」とは何を指すのかというと、普通に考えれば外国からの脅威ということになりますが、実際は異国船無二念打払令が発令された1825年からこの提言がなされた1838年までの13年間に日本近海にはほとんど外国船は現れなかったのです。
ということは、異国船無二念打払令は発令されてから13年間もの間、ほとんど実際に使われることは無かったということになります。こうなると幕府の首脳部や砲台の現場作業に従事している役人たち以外の一般人は、この異国船無二念打払令の存在すら忘れ去ってしまっていてもおかしくないでしょう。
もちろん異国船無二念打払令が実際に使われなかったのは結果でしかなく、1825年時点で実際に脅威が存在すると判断されたから制定されたのであり、その潜在的脅威は消滅はしていないのですからこの法令の存在意義は消えてはいないとも言えます。

実際、どうしてこんなに外国船が日本近海に現れなくなったのかといえば、それは偶然でもなんでもなく、日本で外国船と見れば無差別に発砲するというとんでもない法令が発令されたという情報はオランダ商館を通じて西洋列強諸国は把握して、それが北太平洋を遊弋する各国の捕鯨船に伝達されていたからです。
そんなおっかないことを聞かされたら、いくら冒険的な捕鯨船員であっても、わざわざ危険な目に遭いたくはありませんから日本近海には近づかないように心がけるのです。捕鯨船員は鯨を捕るのが仕事であって日本にアプローチするのが仕事ではないのですから。
確かに捕鯨船としても日本に寄港できたほうが薪水の補給を受けられるのですから便利なのですが、日本がそんなに頑なならば仕方ないわけで、多少荷物にはなりますが薪水を十分に積んで日本近海に出かければいいのです。
西洋列強各国の本国政府がそれぞれの国の捕鯨船のこうした苦労に対して何か手を講じてくれないのかというと、例えばイギリスはこの時期はインドの植民地化とシナへのアヘン密売に全力を傾けており、またロシアは黒海方面への進出のためトルコとの係争に集中しており、まだ日本の状況に構う余裕はありませんでした。
実際、たかが捕鯨船の都合だけで本国政府が動くわけもありません。やはり政府の意思として積極的に日本と通商したいという意思が無ければアプローチはしてこないものです。イギリスやロシアはこの時期はまだそういう状況ではなかったのです。
そういうわけで、日本近海から外国船が消えたわけではなく、うようよ捕鯨船が遊弋してはいたのですが、日本を遠巻きにして眺めて近づいていない状態が13年間も続いていたのです。

つまり異国船無二念打払令は抑止力としては十分に機能はしていたわけです。ただ実際に異国船が現れないわけですから、この13年の間、この法令に象徴される排外主義は主に国内向けに発揮されることになったのです。
そもそもこの法令の制定のきっかけ自体が、日本の一般庶民が外国人と接触することに警戒したからでしたから、幕府にとってはそのほうがこの法令の正しい使い方ということになるのかもしれません。
その被害を受けたのが1823年から長崎の出島にオランダ商館員として来日していたドイツ人医師のシーボルトでした。彼は長崎の町にも自由に出入りして日本の蘭学者のために私塾も開いて西洋医学を教えたりして大変に人望があった人物だったのですが、1825年の異国船無二念打払令発令以降の排外的空気の中で1828年にスパイ容疑をかけられて、翌年に失意のうちに日本を去りました。
ちなみに、このシーボルトの私塾の門下生の中に後に蛮社の獄で弾圧されることになる高野長英らがいたのです。

また、異国船打払令に象徴される対外的危機感は水戸学の尊皇攘夷思想の普及を大いに促しました。この時期、尊皇攘夷思想は一般にはあまり普及はしませんでしたが、武士階級、そして公家階級に尊皇攘夷思想は急速に普及していきました。
後に黒船が来航して実際にその脅威を目で見た時には、強烈な排外思想に燃え上がった人もいれば、逆に深い興味を覚えた人もおり、反応は人それぞれであったのですが、この時期のように実際に外国船や外国人が現れていない時期のほうが、知識は全て水戸学の「新論」などのような机上の論理に限定されており、そういう状態のほうがかえって空想的な攘夷論がすんなり受け入れられやすかったのだと思われます。
このように、徳川斉昭が将軍家慶に説いた「内憂外患」のうち、「外患」の実体といえるようなものは殆ど無かったのですが、ここで説かれている「内憂」が提言の前年に勃発した大塩平八郎の乱を指していると推測されることから、おそらく「外患」も同じく前年1837年に起きたモリソン号事件を指していると推測されるのです。
このモリソン号事件自体は、実際はさほど「外患」と言うにはあたらない事件ではあったのですが、これ以降、確かに海外からの働きかけというか、圧力というか、そういうものが強まってくるようにはなります。ここで少し長くなりますが、その背景を見ていきたいと思います。
それを見ていくことによって、この後の幕末、そして近代日本に迫ってくる「外患」、つまり海外からの脅威というものの本質が見えてくるのではないかと思うのです。
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