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日本史についての雑文その81  13州の独立
さて、アメリカ大陸がコロンブスによって発見されたのは1492年のことですが、16世紀後半になるとヨーロッパ各国からの様々な移民が北米大陸の東部を探検し開拓し、各地に植民地を築いていくようになりました。
これら移民の方達がどういう人達であったかというと、この頃のヨーロッパは宗教戦争の嵐が吹き荒れていまして、多くの新教徒がカトリック教会や旧教徒勢力に迫害されていましたので、そうした宗教迫害から逃れるために新大陸に移住する新教徒がたくさんいたのです。

よく「自由を求めて新大陸に渡った」と言いますが、これはつまり「信教の自由を求めて」ということなのです。ただ、そういう宗教的動機だけでなく、実際は母国では食っていけなくなってイチかバチか新大陸に渡って人生リセットしてやり直そうという動機の人達も多かったようです。
まぁ辛辣に言えば、ヨーロッパに残った人達から見れば「母国でやっていけなくなって逃げ出した連中」というふうに見えます。彼ら移民自身もそのように見られていることは少なくとも自覚していたでしょうし、自分自身でもそのように思っている者も多くいたはずです。
北米大陸東部の植民地の移民達の生業は砂糖やコーヒー、綿花、煙草などの農園で働くことだったのですが、慢性的な人手不足のせいで、それを補うためにアフリカから大量の黒人奴隷を連れてこないといけなくなりました。つまり、それだけ移民が少なかったということで、言い換えると、この時期に北米大陸に移民していくような人達の多くがヨーロッパ社会では相当、最下層の部類であったということが分かります。
こうした移民達が北米大陸へ去っていった後、ヨーロッパにおいては宗教戦争の最たるものといえる三十年戦争が勃発し、1648年にはウェストファリア条約が結ばれて、主権国家というものが宗教権力に優越するという近代主権国家と国際社会の観念が成立し、国際法というものが生まれました。そしてその後、近代国民国家や議会政治の確立のための試行錯誤が続けられていくことになるのです。
こうしてヨーロッパでは血と汗を流しながら中世的停滞を克服していく努力がなされていったのですが、それらの努力が本格的に始まる前に北米大陸に移民していってしまった植民地民たちは、ヨーロッパの人達が積んだそうした貴重な経験を積まないままに、伝統社会の矛盾と向き合う必要もなく、そういう機会も無いままに、農園で単純労働に明け暮れながら世代を重ねていったのでした。

彼ら植民地民たちが北米大陸東部に移民を始めた16世紀後半は、彼らの母国においてはルネサンスの潮流が浸透してきていたのですが、母国においては中世的な教会権力によってその潮流は常に妨害を受けていたのでした。
しかし、彼らの移民した北米大陸東部の各植民地においては伝統社会というものがありませんでしたから、中世的しがらみに縛られることがなく、ルネサンスの理想を容易く現実化していくことが可能だったのです。
それによって北米植民地社会がどのようになったかというと、それは社会の古代ギリシャ・ローマ化の暴走的な進展でした。つまり都市国家化と奴隷制普及、辺境への征服、植民などです。こういった社会の形成が大して妨げられることもなく進展していったのです。そしてこうした傾向はその後のアメリカ社会を特徴づけていくことになるのです。
そして古代ギリシャ・ローマ化の最たるものは、古代ギリシャさながらの古代デモクラシーの復活です。つまり都市国家に置き換わった植民都市の住人全員が参加する直接民主制議会といえるタウンミーティング方式での意思決定システムの構築でした。
しかし古代ギリシャの直接民主制デモクラシーは決して祝福すべきものではありません。実際の歴史においては古代ギリシャのデモクラシーは衆愚政治に堕して混乱を繰り返し、僭主制を招きいれ、それによりギリシャは衰退しローマの征服を受けたのです。
伝統社会の蓄積した慣習法の縛りの無いところで住民の多数決の横暴のみに任せた政治を行えば、集団ヒステリーのような逸脱が生じやすくなるのです。こうした北米植民地のタウンミーティングの在り方は、意外と20世紀の共産シナの人民裁判に近いものであったのかもしれません。
そして、こうした北米大陸植民地における直接民主制の復活は、16世紀後半からイギリスやフランスで生じてきた啓蒙主義的人工国家論を受け入れやすい土壌となったのでした。そもそも北米植民地自体がまさしく人工国家であったのですから、どうしてもデカルト的な理性万能主義の系譜にある人工国家論や社会契約説が疑いも無く受け入れられやすかったのです。
例えば北米大陸のイギリス植民地においては君主はイギリス国王なのですが、それを支える伝統社会というものが存在していない以上、その存在感は一般住民にとっては希薄なものでした。そうなると、自然に主権に対して国民が優越するロック理論や、主権を人民が有するというルソー理論のほうが受け入れられやすくなるのです。
それらを批判したコークやヒュームの保守主義的な理論は母国イギリスにおいても知的エリートの支配的理論でしかなく、一般民衆の共有するところではありませんでした。イギリスは厳然とした階級社会であったので、エリートと一般民衆では意識が全く違うのです。
しかし北米大陸に移民してきているイギリス人の大部分は下層の一般民衆でしたから、どうしてもコークやヒュームよりは、ロックやルソーのほうが受けがいいわけです。だからコークやヒュームのような保守主義思想を信奉する者はあくまで少数派で、ロックやルソーのような社会契約説に基づいた過激な革命思想を信奉する住民が増えていきました。そしてそうした住民たちがタウンミーティングなどで発言権を有していたのです。

そのように北米大陸植民地の社会が変質していっている間、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパではイギリスとフランスの覇権争いが繰り広げられ、この2国が戦争をするたびに、それに連動して北米大陸のそれぞれの植民地間でも戦争が起きるということが何度か繰り返されていたのです。これは両国の軍隊同士が行うことであって、植民地民にとってはあまり関係ないことでした。
そうして1763年にこれら一連の英仏戦争はイギリスの勝利に終わり、イギリスは北米大陸の大西洋岸の13の植民地に加えて、その西部にあったフランス領の広大なルイジアナ植民地をも領有することとなったのです。
イギリスではこの広大な新領土を維持経営していくために旧来の13植民地の住人に重税をかけて、更に13植民地の住人が他国と貿易することを禁止してイギリスとだけ貿易するように規制しようとしました。そうしたうえで13植民地での工業の発達を押さえつけようとしたのです。13植民地北部で勃興していた工業がイギリスと競合することを嫌ったからです。
これに対して13植民地住人が反対運動を展開してイギリス政府との間にいざこざを生じ、1773年にボストンで住民の暴動が発生し、イギリス政府もこれに強硬な措置を示したために住民との対立は決定的となりました。
ここにきて13植民地住民の代表は1774年に第一回大陸会議を開きイギリスに対して植民地の自治を求めることを決定し、1775年に植民地の民兵とイギリス軍が衝突し、アメリカ独立革命が起こったのです。
そして1776年7月にアメリカ13州独立宣言が発表されたのです。発表者は独立軍総司令官であったジョージ・ワシントンでしたが、起草者はロック思想やルソー思想の信奉者であったトーマス・ジェファーソンであったので、その内容は社会契約説に基づいた人工国家論そのものでした。
いや、アメリカこそ彼ら理性万能主義者たちにとっては、世界で初めての「人民の契約によって生まれた人工国家」というケースになるはずのものだったのですから、その壮大な実験の開始にあたって、高らかにその理想を謳い上げるのはむしろ当然だったといえるでしょう。
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