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日本史についての雑文その82  合衆国の建国
1775年に始まったアメリカ独立革命戦争のほうは、当初は独立軍が苦戦しましたが、フランスをはじめとしたヨーロッパ諸国がイギリスの足を引っ張るために独立軍に加勢したため、イギリスは孤立して次第に劣勢に立つようになり、1783年にパリ条約を結んでアメリカ13州の独立を承認したうえに、先だってフランスから獲得したルイジアナ植民地も手放すこととなりました。
ルイジアナ植民地のミシシッピ河より東半分は独立した13州の領土となり、西半分はスペイン領になりました。そして、この時点で13州とフランスとはイギリスを仮想敵国とした米仏軍事同盟を組むこととなったのです。

イギリスは戦争に敗れ、カナダ以外の北米大陸の植民地を失い、しかもヨーロッパでも孤立したので、この後は活路をアジア方面に見出すこととし、インド方面への本格的進出を開始しました。
イギリス国内では1760年代から世界に先駆けて産業革命が進行中で、機械織機による綿布の大量生産が行われていたが、この原料の綿花の供給地としても、製作した綿布を売りさばく市場としても北米大陸植民地はイギリスにとって重要なものでした。それでイギリスは北米大陸植民地に貿易上の厳しい規制をかけて反発を招いたのです。
13州の独立によってイギリスは原料供給地と海外市場を多く失うこととなったので、その代用としてインドへ進出していかざるを得なかったのです。イギリスはインドから綿花を購入し、その反面、インドの綿布には高率関税をかけて国内の繊維工業を保護し、国内で生産した綿布をインドにどんどん輸出していきました。これによってインド国内の繊維産業は大打撃を受けることになります。そしてイギリスは生活革命を経て国内市場も成熟させていくことになります。
フランスは、アメリカ独立戦争に介入したせいで軍事費の出費がかさみ財政難に陥り、国民に重税を課すことになりました。これにより国民の不満は高まり、アメリカ独立革命の成功に勢いづいたルソー主義者たちがますます浸透していきました。

そしてアメリカの独立した13州は、独立宣言の輝かしさとは裏腹に迷走していました。間違えやすいことですが、この時点では13州がそれぞれ個別に独立を達成しただけであって、アメリカ合衆国という統一国家はまだ存在していないのです。
だから「13州」という呼び方もこの時点では適切ではなく、13個の新しい独立国家が存在している状態であり、それが統一国家を形成するなどという予定が立っているというわけでもなかったのです。あくまでバラバラに13個の独立国家が乱立している状態だったわけです。
しかもこれらの諸国はそれぞれ人民の契約によって形成されたということになっており、人民の権限は無制限で、そのため衆愚制に陥り、タウンミーティングの直接民主制で各自は好き勝手なことを主張し収拾がつかなくなっていました。まさにホッブズが危惧した自然状態が現出していたのです。このような無法状態は各国間でもあてはまり、まさに古代ギリシャの都市国家間の戦争のように、それぞれの独立国家同士の戦争が起きる可能性もありました。
13の独立国家は経済的にも危機に直面していました。もともとこれらの諸国の経済は自立できておらず、主にイギリスへの綿花をはじめとする農産物の輸出によって成り立っていました。しかし独立戦争によってイギリスと断交状態になってしまっていたため、経済的に立ち行かなくなってきていました。
結局、人工的な契約国家などというものは安定はもたらさず、更なる混乱をもたらしただけだったのです。このままでは新たに独立した13邦は無政府状態に陥る可能性が高くなってきました。そこで1787年に、ジェファーソンのようなデモクラシー派を排除して、先の独立戦争の軍事的指導者であった保守主義者のアレクサンダー・ハミルトンの尽力で憲法制定会議が開催され、強力な中央政府を持つ統一国家設立の方針が決定されたのです。
そしてすぐにアメリカ合衆国憲法が起草され、翌1788年に11邦の批准を得て、そしてその憲法に基づいた選挙によって初代大統領にワシントンが選出され、1789年4月に連邦国家としてのアメリカ合衆国が建国されたのです。

ここで注意しなければならないのは、1775年から1783年の「13邦独立」の流れと、1787年から1789年の「アメリカ合衆国建国」の流れは全く別のものだということです。確かにアメリカにあったイギリスの植民地が独立したのは1776年7月4日ですが、これはあくまで独立記念日であって建国記念日ではありません。統一国家としてのアメリカ合衆国建国は1789年4月のことなのです。
その思想的背景も全く別々のものであり、1776年の独立宣言がロックやルソーのような人工的国家を志向する急進的民主主義思想に基づいたものであったのに対して、1788年の合衆国憲法はコークやヒュームのような保守主義思想に基づいて民主主義の過激な暴走を抑制しようとしたものでした。
一言で言えば、ルソーの思想が「人権」という正体不明のものを求めるものであるのに対して、合衆国憲法は「イギリス国民の自由」をアメリカ国民にも適用しようという意図のものであり、そのためにイギリス国民の自由を保障している「コモン・ロー」のアメリカ版として合衆国憲法が作られたのです。
独立宣言が急進的民主主義論者のジェファーソンを中心として起草されたのに対して、合衆国憲法は知的エリート層出身で保守主義者のハミルトンを中心に起草されたのでした。初代大統領のワシントンもハミルトンの同志で保守主義者でした。

その合衆国憲法の特色は、まず独立宣言のような人民主権を否定していることです。というより、この憲法には「主権」という概念がそもそも無く、しいて言えばこの憲法自体が明文化されたコモン・ローとして「法の支配」を行う主権者となっている、「法主権」がこの憲法の主張する主権論だといえるでしょう。
ただ民主主義の存在自体を否定しているわけではありません。社会の自由化や情報化が進めば民選議員による代議制は不可避であり、民衆参加の政体となるのは必然です。これを認めた上で、それを無邪気に礼賛するのではなく、その暴走を抑制していこうというのが合衆国憲法の思想でした。
すなわち、民主主義勢力の牙城となる立法府の暴走による国家に害をなすような法律の粗製乱発を抑制するためにコモン・ローの明文化としての憲法の制定があるのであり、憲法が法律に優越するという原則を確立し、司法府による違憲立法審査によって立法府の暴走を抑制することにしたのです。そして更に立法府への歯止めとして行政府、つまり大統領による拒否権の保持も明文化しました。
面白いことに、この合衆国憲法には国民主権、平等、人権のような日本の現行憲法において基本原則とされているような概念は全く含まれていません。もちろん戦争放棄なんていう狂気の沙汰も含まれていません。つまり、日本の現行憲法を起草した人達というのは合衆国憲法とは正反対の思想の持ち主だということになります。

一方、合衆国憲法の起草において指導的役割を果たしたハミルトンの政治哲学は、人権などという万人が享受する普遍的権利などというものは認めず、正しき統治の国においてのみ、その国民が享受できる特権として「法の下の自由」があるとしました。
正しき統治とは、道徳的に正しい統治のことであり、それは民選政府においては欠いてはならない原則であるというのがハミルトン思想でした。道徳的統治と自由の擁護は密接不可分な関係にあり、道徳を生み出す源泉は既成宗教の擁護と信教の自由の保障にあるとしました。
そして何故「法の下の自由」なのかというと、人による専制政治を排して法による政治を行うことによって自由が保障され、それが国民の幸福に繋がるというコーク以来の保守主義の原則に従っているからです。また、自由があれば不平等が発生するのが当然であるから、平等の要求は自由の侵害であり財産権の侵害であるから認められないとしました。財産権の擁護は自由の擁護と表裏一体のものなのです。
このようにハミルトンは、道徳と自由と財産を三位一体のものとして、これらを自由社会成立の柱としたのです。こうした保守主義思想が合衆国憲法の根本にあるのです。

そして、こうした保守主義的な合衆国憲法は、1776年の人民主権的な独立宣言への重大な挑戦でもあったわけで、当然、ジェファーソンを中心としたデモクラシー派はこの憲法に反対し、アメリカ合衆国という連邦国家形成にも猛然と反発したのでした。そうして憲法容認派のハミルトンを中心とした連邦派と、憲法反対のジェファーソンを中心とした反連邦派が各州で抗争を繰り返すこととなり、これが政党の起源となるのです。
また、この連邦派と反連邦派の対立はそのまま外交政策における対立にも繋がっていきました。つまり、この合衆国憲法の基本要素である「道徳・自由・財産」を徹底的に破壊することを目的とした無差別大量殺戮であったフランス革命に対して連邦派は当然ながら批判的となり反仏政策を選択したのに対し、そもそもフランス革命の革命原理であるロックやルソーの思想に親和的な反連邦派が親仏政策を主張したからです。
このように保守主義思想に基づいた憲法によって建国されたアメリカですが、この後のアメリカの歴史においては常にこうした保守主義と民主主義の葛藤が繰り広げられることとなるのです。いや、結局は人工国家である宿命として、常に民主主義勢力が優勢なのですが、それが決して革命フランスやソ連のように悪質な全体主義にまで暴走しないで済んでいるのは、この保守主義的な合衆国憲法という重しが存在しているお陰なのでしょう。
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