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日本史についての雑文その84  国民軍の登場
フランスにおいては1791年に国王ルイ16世一家が国外逃亡しようとして失敗し連れ戻される事件が発生し、これによって反王政感情が強くなり、新しく公布された立憲君主制の憲法の下での議会では国王なしの共和制を主張するジロンド派が議席を伸ばして政権を握りました。
こうした革命の過激化に対して外国からの圧力が強まったため、革命政府は1792年に革命維持のためにオーストリアやプロイセンに対して対外戦争に踏み切りましたが、フランス軍は総崩れとなりました。

そもそもフランス軍の士官は貴族階級であったので、自分達を弾圧する革命政府のために戦う気など無かったのです。
そこで革命政府は祖国の危機を国民に訴えて義勇兵を募りました。フランス全土から集まった義勇兵たちはまずテュイルリー宮殿を攻撃し王権を停止して国王一家をタンブル塔に幽閉してから攻勢に転じました。この過程で義勇兵に参加した下層民の発言力が増し、彼らの支持するジャコバン派が勢力を増すことになり、革命はますます急進化していきました。
そして1792年9月に議会が廃止され普通選挙によって新たな議会が召集され、王政廃止と共和政が宣言され、共和政府はルイ16世を革命裁判にかけて死刑を宣告しました。

1793年1月にルイ16世の死刑が執行されるとヨーロッパ諸国は反革命に立ち上がり、バークの提言はあったものの従来からの反フランス王室感情が強かったために革命に同情的であったイギリスまでもがここにきて反革命に立つこととなり、イギリスを中心に対仏大同盟が編成されました。ここにきてやっとバークの提言は採用されたのです。
一方、アメリカ合衆国のワシントン政権で外交を担当していたハミルトンも、事実上の米仏軍事同盟破棄となる対仏中立宣言を出して反革命姿勢を示しました。さすがに独立戦争を戦ったばかりのイギリスとの同盟に参加するわけにはいかなかったのです。また、建国間もないアメリカにはまだ対外戦争に参加する余裕はありませんでした。
ヨーロッパ各国の軍がフランスに押し寄せる中、フランス軍は総崩れとなり、国内で反乱が頻発し、国内情勢は不安定化しました。そうした中で6月に下層市民と共にジャコバン派がクーデターを起こしジロンド派を追放して独裁政治を開始しました。
ジャコバン派の頭目のロベスピエールは公安委員会や革命裁判所を使ってこの後約1年間、恐怖政治を敷き、反対派をどんどんギロチン台に送り、ジャコバン派内にも大粛清を行い同志も多くギロチン台に送りました。
また8月にはロベスピエールは国家総動員を発令し徴兵制を実施し150万人という、他国の傭兵制度では想像もつかないほどの巨大兵力を得ることとなりました。この巨大兵力の前にヨーロッパ連合国軍は敗れ去り、逆にフランスがこの大兵力を使って周辺国への侵略を開始することとなりました。しかしフランス軍にはこの巨大兵力を支える補給能力が無かったので、フランス軍による他国占領地での略奪が横行し、占領地は荒れ果てました。また、南仏の反乱を鎮圧する際に住民大虐殺なども行いました。
そして1794年6月にはロベスピエール独裁の、理性を神として祀る新しい宗教国家を創るというところまでジャコバン派の暴走は極まったのでした。まさにロベスピエールがルソーの言うところの「一般意思」をただ1人知る「立法者」そのものとなり、神を超えた存在となったのでした。
ここにきて1794年7月に反ロベスピエール派はクーデターを起こし、ロベスピエールをはじめジャコバン派幹部を逮捕しギロチン台に送りました。
このあたりが革命の熱狂のピークであり、この後、過激な革命運動は沈静化していきますが、フランスによる対外侵略はますますエスカレートしていき、1796年にはオーストリアを屈服させるためにウィーン侵攻作戦を企図し、そのイタリア方面軍司令官としてナポレオン・ボナパルトが起用されることとなったのです。

この時代のヨーロッパの軍隊は傭兵制でした。傭兵とはプロの戦闘技術を身に付けた者で、戦闘に参加することで報酬を得る者です。これは戦闘能力は高いのですが、数がそんなに多くありません。
一方フランス革命軍は徴兵制でした。これは一般人に武器を持たせたもので、戦闘の素人です。しかもこの時のフランス軍は徴兵したての急造軍で、本当にど素人の寄せ集めでした。そのかわり兵数は150万という途轍もないもので、戦術も作戦も関係なく、数の圧力でフランスに侵入してきていた外国軍を圧倒しました。
しかし、フランス軍が周辺諸国に侵入していく局面になっていくと、戦線が拡大してさしもの巨大兵力も分散して圧力が弱くなっていきました。そうなると個々の軍の戦闘能力では外国軍のほうが強いわけです。
しかも、フランス軍は装備が非常に貧弱でした。何せ、前代未聞の150万もの将兵に満足に行き渡る装備が揃うはずもなく、フランス軍兵士たちは軽装備で小銃が行き渡ればいいという感じでした。大砲も分散した戦線ごとに少しずつ行き渡るという状態で、各戦線での火力不足は深刻でした。しかも補給は常に不足しており、将兵は苦境の中で戦っていました。
そうしたフランス軍を有効に活用して勝利していくために、軍事の天才ナポレオン・ボナパルトが考案した戦術が世界史の流れを変えることとなったのです。

徴兵されてきた国民兵たちは戦闘技術は不足していましたが、とにかく使命感に溢れていました。それは革命の狂気でもあったのですが、その行動の善悪はさておき、とにかく彼らは自分が国家の命運を賭けた戦いに参加しているのだという高揚の中にいたのです。そのようなことはフランス国民にとっては初めての経験だったのです。
そしてナポレオンという指揮官は、そうした民衆の感情を鼓舞することに非常に長けた指揮官であり、ナポレオン指揮下の国民軍は、金儲け目的の傭兵部隊では決して遂行できないような危険な作戦もこなす、生命知らずの軍団となったのでした。また、命令に盲目的に従うだけではなく、戦闘に責任感をもって参加する意識がありました。
こうした国民軍の特性、というより唯一の美点を活かして、更にそれにナポレオン自身の能力であった砲兵部隊の用兵を加えて、ナポレオンは前代未聞の戦法を編み出したのです。
それは兵力を密集隊形で集合させて正面からぶつかり合うのではなく、連隊単位で各所に分散配置する散兵戦術でした。散兵していたほうが敵の攻撃目標を分散させることが出来るという利点があります。
そしてそれぞれの連隊に大砲を配備し、その大砲の前に軽装の歩兵銃隊を配置し、連隊単位で攻撃や迂回、高地登坂など臨機応変に移動して機動戦を展開して、攻撃時には大砲の援護射撃を背後から受けて、味方の大砲の弾や敵の銃弾を当たり難くするために歩兵銃隊が縦隊で突撃したのです。そうした連隊単位の攻撃を各方面から行い、敵を包囲して殲滅するという戦法でした。

このような戦法を実現するためには、まず散兵戦術というものは兵士の逃亡のリスクが高いので傭兵や奴隷兵では不可能な戦術でして、国家防衛の使命感に燃える国民軍にして初めて可能な戦術でした。そしてこの用兵の場合、連隊レベルで司令官の意図が完全に伝わっていないといけませんが、国民軍将兵の使命感や責任感の高さがそれを可能にしました。そして敵の弾幕の中を突撃していく勇気は、国民軍の祖国防衛のための士気と高揚感があって可能になりました。
特に縦隊突撃は先頭の兵士に敵の攻撃が集中しますから、よほどの勇気が無ければ出来ません。もちろんその先頭の兵士が倒れたらその後ろの兵士に攻撃が集中するのです。だから個々の兵士が全員、生命を投げ出す使命感を持っていなければ出来ない作戦なのです。
傭兵部隊ならば横一線を組んで少しずつ面を占有していきながら前進していきます。それが安全だからです。生きて帰らなければ報酬を得られないのですから、何を好き好んで縦隊突撃などするわけもないのです。
しかしそうした機動的用兵が可能になれば、その機動力は傭兵部隊を圧倒するのです。その機動力を可能にしたのが、小銃と弾薬以外の余計な甲冑や武具などを省いた軽装備と、各部隊を連隊規模とすることで身軽にしたことです。兵士を軽装にするためには食料などを背負わせるわけにはいかなかったので兵糧は現地調達することになりました。
また、縦隊突撃するならば部隊は別に大人数である必要は無いのです。それよりも多方面から一斉に突撃するほうが効果的なのです。多方面に一気に展開するためにも迅速な機動力は不可欠でした。
そうした突撃も丸裸で行えば敵の攻撃の格好の的となってしまいますから、それを援護するために大砲を撃ったのです。そのために砲兵部隊の機動性も高めました。
援護射撃は敵陣地を攻撃して敵が味方の突撃部隊を銃撃したり砲撃したり出来ないようにするものでもありますが、それよりも大事なのは味方突撃部隊の周辺に敵部隊を近づけさせないことでした。
この時代の銃というのは命中精度が低く、ライフル銃のような遠くから狙撃可能な銃はまだ一般的ではなく、防御時は敵を引き付けての弾幕射撃、攻撃時は突撃してある程度敵に接近してからの射撃が主であったので、突撃部隊にとって最も恐るべきことは敵部隊が出張ってきて包囲殲滅を仕掛けてくることでした。そういった敵の「横入り」を妨害するために大砲の援護射撃が有効だったのです。
つまり、そうした味方の大砲の援護射撃を容易にするためには、味方突撃部隊を誤って砲撃する可能性が低い縦隊突撃が最も適していたわけです。
ちなみにライフル銃が本格的に大量使用されるのは1854年のクリミア戦争のことで、これ以降、歩兵銃隊は常に戦場では銃撃を避けるための回避行動をとるようになり、突撃の速度も上がることとなり、真の機動戦の段階に突入していくことになるのですが、このナポレオン戦法も後代のものに比べればまだ緩慢なものとはいえ、画期的な戦法であったのです。

こうしたナポレオン戦法は、砲術の天才であったナポレオンと、国民軍の強烈なナショナリズムが合体して初めて可能となった新戦法だったのです。
ルソーやロックの理性万能主義思想に基づくデモクラシーは、とんでもない逸脱と暴虐をもたらす恐ろしいものでもありましたが、その内容の良し悪しはともかくとして、国民一人一人に国政への参加意識と国家防衛意識を植えつけることによって、巨大規模で士気旺盛な国民軍を作り上げる効用もあったのです。
それを発見し、その長所を最大限に活かす戦法を発明したのがナポレオンであり、ナポレオンの出現によって、民主主義を採用した国民国家の国民軍こそが最強の軍隊となったのです。これが世界史の流れを変えたのです。
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