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日本史についての雑文その85  ナポレオン戦争
この画期的なナポレオン戦法を使ったナポレオン率いるフランス軍は全く無敵で、少数兵力であっても大軍を破るなど連戦連勝を重ねていき、1797年にはイタリアを占領しオーストリアを屈服させて対仏大同盟を崩壊させました。
しかし海戦で負けたために、制海権を持つイギリスだけは屈服させることが出来なかったため、フランス革命政府は1798年にナポレオン軍団をエジプトに送り、イギリスとその最重要植民地のインドとの連携を断とうとしましたが、またもやイギリス海軍に海戦で敗れ、ナポレオンはエジプトで孤立することになってしまいました。

そうしている間に対仏大同盟が復活しフランスは危機に陥り、1799年にナポレオンは独断でエジプトからフランスに舞い戻り、11月にクーデターを起こして独裁権を掌握したのです。その後ナポレオンは攻勢に転じて、オーストリアなどを屈服させた後、1802年にイギリスとも和約を結びましたが、国内や占領地では反対派への弾圧を強め、更に独裁を強化させていき、イギリスとの和約条件も履行されずナポレオンがヨーロッパ市場からイギリス製品排除の動きを見せたので、イギリスはナポレオン排除のために1803年にフランスに宣戦布告し、対仏大同盟も復活してナポレオン戦争が開始されました。

そうした中、ナポレオンはますます権力集中を強め、1804年には帝政の開始を宣言し、フランス皇帝ナポレオン1世となりました。ナポレオンはこれ以前にはヨーロッパ諸国の民衆に専制政治の圧制を打倒するために立ち上がるようナショナリズムを鼓舞する呼びかけをしきりに行っていましたが、結局これは敵戦力の後方霍乱を狙った方便に過ぎなかったというわけで、皇帝になったことでナポレオンの政治的無定見が顕わとなり、権力の亡者という正体が明らかになったのだといえます。
しかしとにかく戦闘においては圧倒的強さを誇ったため、ナポレオンは破竹の進撃を続け、1807年にはヨーロッパ大陸の大部分を制圧することとなりました。そうして占領地に圧制を敷いたため、皮肉なことにナポレオン自身が諸国のナショナリズムを刺激して、民衆が立ち上がって打倒すべき専制政治の圧制の象徴となっていったのでした。
この間、ナポレオン軍はイギリス上陸も企てましたが、1805年にトラファルガー海戦でイギリス海軍にまたもや惨敗し、フランス海軍は壊滅しました。そこで1806年に大陸封鎖令を布告して、ヨーロッパ諸国にイギリスとの交易を禁止しました。
これはイギリスの産業革命で生産された製品を売りさばく市場を無くしてしまい、イギリス経済を疲弊させようとした策略だったのですが、イギリスはインドなどの海外植民地に製品市場を開拓したため、全くダメージを受けず、逆にヨーロッパ大陸諸国のほうがイギリス製品を買えずに経済を疲弊させていくことになりました。また、イギリスは報復措置としてフランスに対して海軍でもって海上封鎖を行い、フランスのほうが海外交易を行えなくなって困窮することとなりました。

このナポレオン戦争開始に先立って、アメリカでは1800年の大統領選挙で、連邦派が作った政党である連邦党のジョン・アダムス第二代大統領から、反連邦派が作った政党である民主共和党のジェファーソン第三代大統領への、初めての選挙による政権交代が起こりました。民主共和党というのは現在のアメリカ民主党の前身ということになります。
さすがに建国から10年以上経っていたので、反連邦派が政権を取っても合衆国が解体することはありませんでしたが、この後19世紀の前半期はほとんどの期間をこの民主党系の政権が続いたために、アメリカの政策は大きく変わっていくことになりました。やはり、いくら保守主義的な憲法で建国されたとはいっても、その出自が人工国家である点は否めず、どうしてもアメリカという国は、特にこの初期の頃は、リベラル勢力が強い傾向があったのです。
民主共和党というのは現在の民主党と同じくリベラル色が強く、ルソーやロックの思想の信奉者が集まっていましたから、フランス革命に同調する勢力でした。だからジェファーソン政権はフランス革命の後継政権であるナポレオン政権に親和的で、それに敵対するイギリスを敵視する傾向が強かったので、このジェファーソン政権になって米仏同盟は事実上復活するようになりました。
北米大陸の旧フランス植民地であったルイジアナは独立戦争後は東半分がアメリカ領、西半分がスペイン領になっていたのですが、フランス革命政府はスペインから西ルイジアナを再び譲り受けていました。その西ルイジアナをナポレオンは軍資金捻出のために、1803年にアメリカに売り払ったのです。
これでアメリカは13州に加えて広大なルイジアナ植民地も加えて北米大陸の東部の大部分を領有することになっただけでなく、ミシシッピ河の水運も使えるようになったのでルイジアナ植民地の開拓に弾みがつきました。
しかし、この西ルイジアナ買収の数週間後にはナポレオン戦争が始まり、イギリスとフランスが戦火を交えるようになったので、ナポレオンに資金援助を行った形となったアメリカはイギリスの心象を悪くすることとなりました。
そうした中、1806年にナポレオンが大陸封鎖令を出して、その報復措置としてイギリスがフランスへの海上封鎖を行った際に、イギリスはアメリカに対しても報復措置として緩い海上封鎖を実施したのです。
アメリカ経済はこの頃はまだ自立しておらず、ヨーロッパ経済と一体化したものでした。アメリカはヨーロッパへの農産物の輸出で稼ぐ外貨に依存した経済構造でしたから、この海上封鎖は痛手だったのですが、イギリスもまたアメリカからの農産物の輸入に大きく依存していたので、ジェファーソン政権は強気に出て1807年に外国貿易停止措置をとりました。そうすればイギリスが折れてくると踏んだのです。
しかしイギリスは農産物輸入を他の海外植民地からに切り替えてしまい、この外国貿易停止措置はアメリカ自身の経済に大打撃を与えてしまったのです。
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