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日本史についての雑文その86  諸国民の戦い
この頃ヨーロッパのナポレオンの占領地域では反ナポレオンの動きが起こりつつありました。それは従来の王族や貴族の立場での反ナポレオンではなく、各国の民衆が侵略者であるナポレオン軍を追い出して自分達の国家を解放しようという動きでした。つまり、フランス以外のヨーロッパ諸国でもナショナリズムが勃興してきたのです。
実際、ナポレオン軍に打ち勝つためには、自分たちもナポレオン戦法を実践できるようにならなければ不可能なのです。すなわち、徴兵制で大規模軍隊を編成し、師団単位で軍を運用し、連隊単位で散兵しての機動戦を展開するということなのですが、そのためには傭兵ではなく国民軍でなければいけないのです。

国民軍というのは国民が国家の政治や防衛に参加意識を持っていなければ編成できません。つまり民主主義的な国家でなければ国民軍は編成できないのです。戦後日本では理解が難しいかもしれませんが、徴兵制というのは民主主義国家の兵制であって、専制国家ではだいたい傭兵制か、あるいは奴隷のように借り集められた兵隊になります。もちろん民主主義国家といっても色々なものがあり、現在の北朝鮮のような国も建前上は民主主義国家なのですが。
とにかく、ナポレオン軍に勝つために、ヨーロッパ諸国は国民軍を必要としたのであり、そしてそれはフランスと同じようなルソーやロックのような国民主権論を基本とした人工的な民主主義思想を採り入れるということでもあったのです。

もちろん、バークが指摘したように、またフランス革命で実証されたように、民主主義思想にはとんでもない毒が含まれているのです。しかしその毒を食らわない限り、ナポレオンという巨悪に勝つことが出来ないわけです。
まぁ一種の強化薬、ドーピングのようなものと考えればいいでしょう。国家という自然生命体にとって民主主義というものは一応薬にもなるのですが、例えば保守主義が漢方薬だとすれば民主主義は化学合成薬物のような異物であって、日常的に過剰に摂取すれば害のあるものとなります。さしずめフランスは一度に大量摂取したために破滅に至ったということになるでしょう。
他のヨーロッパ諸国の場合は、この民主主義という強化薬をフランスのように濃厚に大量摂取はせずに、注意深く薄めて摂取していき、少しずつナポレオン軍に勝てる力を蓄えていったのですが、結局ナポレオンを倒した後も、この民主主義という薬無しではやっていけなくなってしまったのです。何故なら、一度みんながそういう大きな力を手にしてしまった以上、それを一斉に捨てることなど出来なくなるからです。
こうしてナポレオン戦争後にヨーロッパ中に国民軍思想やナショナリズムは拡散するようになり、そしてそれは民主主義の浸透をも意味していたのです。ナポレオン戦争後しばらくは民主主義は抑制されましたが、すぐにそれは頭をもたげてくることになるのです。
このように民主主義というものは、それが素晴らしい理念だから広がっていったのではなく、「強い軍隊を持つ」という目的のための手段として、国家の生き残りのために選択の余地なく受容されていったのです。
この国家サバイバルのために国民軍創設が必要条件となり、そのために民主主義を採り入れていくという選択の余地なき選択を、後に幕末の日本もしていくことになるのです。この原理に最初に気づいたのがアヘン戦争後の上海でシナ社会を見聞した高杉晋作であり、彼は幕府の進めていた物質的開化政策のみでは国家主権を保てないと悟り、急進的な身分制度の改革を行い、身分差別の無い社会を作って国民軍を創設しなければ日本も半植民地と化した清国の二の舞になるという危機感を持つようになり、それが倒幕運動につながっていくのです。

これと同じようなことが後世における共産主義や全体主義の流行にも言えます。1929年の大恐慌以降、国家の生き残りを賭けて、列強諸国はこぞって全体主義化しましたが、これも「強い国家」を目指して選択の余地が無かったことなのです。ただし、この共産主義や全体主義というものは民主主義の究極の進化型といってもよく、強化薬というよりは、覚醒剤に等しいもので、一時的な活力は得られるものの、確実に身体はボロボロになるのです。
そうして世界はボロボロになって滅びていくはずだったのですが、それを抑止したのが、日本人にとっては全く皮肉なことに、忌まわしき大量殺戮兵器である核兵器だったのですが、それはまた後の話です。

さて、ナポレオンですが、例えば1808年からスペインで反乱が起こり、それに呼応して諸国が立ち上がり、やや苦戦を強いられるようにはなってきましたが、さすがに天才的軍略家ですから、再びヨーロッパのほとんどを制圧し、1811年にはナポレオン帝政は絶頂期を迎えました。
しかしロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの交易を再開したため、ナポレオンは1812年6月に60万もの大軍でもってロシア遠征を開始しました。反乱軍にイギリス軍も協力したスペイン戦役は泥沼状態に陥っていましたが、ナポレオンは二正面作戦を選択したのです。
同じ頃、1812年の6月にはフランスの同盟国であるアメリカがイギリスに宣戦布告しました。イギリスの海上封鎖で経済が行き詰ったアメリカが、この頃は第四代大統領の民主共和党のジェームズ・マディスン政権になっていましたが、イギリスの譲歩を得るためにイギリスのカナダ植民地への遠征を開始したのです。
これが英米戦争の開始でした。しかしカナダ遠征はイギリス植民地軍に阻まれ失敗し、海戦でもアメリカはイギリスに敗れ、海上も完全に封鎖されてしまいました。
一方、ロシア戦線ではナポレオン軍は補給を軽視した戦いをしたためにロシア軍の焦土戦術に苦しめられ、冬将軍の到来によってナポレオンは撤退を決断しました。しかし撤退するフランス軍にロシア軍やロシア農民ゲリラなどが襲い掛かり、60万の大軍はほとんどが失われ、12月にパリに帰り着いたフランス兵は5千人であったといわれます。
ナポレオンのロシアでの大敗を見て1813年にはヨーロッパ諸国が一斉に反ナポレオンで立ち上がり、スペイン戦線でもイギリス軍が攻勢を強めました。そうして10月に「諸国民の戦い」といわれたライプツィヒの戦いでナポレオンは決定的な敗北を喫して敗走し、連合軍はフランス国内へ侵入し、1814年3月には連合軍がパリに入城し、4月にはナポレオンはエルバ島へ追放されたのです。
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