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日本史についての雑文その89  植民地獲得競争
ヨーロッパ諸国は1820年以降、植民地獲得競争を開始するようになり、アジアやアフリカに進出してくるようになりました。
といっても、世界の海上権を握っていたのはイギリスでしたから、海伝いに進出しなければいけないインドや東南アジア方面の競争に関してはイギリスが圧倒的優位にありました。他の諸国はイギリスの海上権の下で、イギリスの優先権を承認しつつ進出していくという形にならざるを得ませんでしたから、東南アジアにおける競争はイギリス主導で進められました。

そういうわけで、イギリスに次いで産業革命期に入ったフランスが海外植民地や海外市場として進出していったのは、地中海の対岸から陸伝いに進出していけるアフリカや中近東方面であり、これら地域でイギリスと植民地獲得競争を繰り広げることになります。
他のヨーロッパ諸国としては、オランダが伝統的に影響力を有するインドネシアの植民地化を着々と進め、ドイツやイタリア、オーストリアはまだ国民国家がちゃんと確立されていなかったので植民地獲得競争には出遅れていました。
そしてシベリアという事実上の広大な植民地を有するロシアは、更にベーリング海峡を越えてアラスカを領有し、コーカサス方面や黒海方面でトルコやイランと領土紛争を繰り返し、海上への出口を求めていました。
ナポレオン戦争後の世界最大の海軍国は当然イギリスでしたが、世界最大の陸軍国はナポレオンの遠征を撃破したロシアであり、そのロシアが海上に出てくることを嫌ったイギリスはトルコやイランに肩入れしてロシアの進出を抑えていました。
こうしたヨーロッパ諸国とは一線を画した姿勢を示しつつ、北米大陸西部を事実上の植民地化していきつつあったのがアメリカであり、また北太平洋に進出しロシアとの間に勢力範囲の画定をして、東アジア方面に進出して、イギリスが本格的に進出してくる前になんとか交易市場に食い込もうとしていました。この過程でモリソン号事件も起きたのです。
また、1820年にスペインから独立した中南米地域にはモンロー宣言後はアメリカが影響力を及ぼそうとしますが、これら地域は結局1840年代にイギリスが自由貿易主義に転換した後はイギリスの影響下に入ることになります。
このようなイギリスの自由貿易政策は、中南米諸国の独立を暗に支援して、それら諸国を旧宗主国から切り離してイギリスの経済衛星国にしようという政策で、新興の独立国はそれに惹きつけられてて、イギリスへの依存を強めていきました。
このようにして、世界中の海には欧米諸国の商船によって商業航路が開かれるようになっていきました。こうした傾向に拍車をかけたのが1838年に外洋航海可能な大型蒸気船が実用化されたことです。これにより多くの物資や人員が一度に運べるようになり、また、そういった航路の安全を守る軍艦の武装や装甲も強化され、いっそう強大な軍事力を背景として植民地獲得競争もテンポアップしていったのでした。

こうして世界は欧米諸国によって一つの経済圏として統合されていこうとしていました。その中で、東アジア世界だけがそうした流れを拒絶していたのです。
何故なのかというと、それはまず拒絶できるだけの実力があったからでした。欧米諸国の植民地獲得は結局は武力を背景にしたものだったのですが、東アジア世界にあった清国や日本にはちゃんとした政府もありそれなりの武力もあったので、欧米諸国の武力の威嚇もそれほど大きな効果を発揮しなかったのです。
しかし、それも1838年の大型蒸気船の出現によって状況が変わり、欧米諸国も武力で東アジア世界に圧力を加えることが可能になっていったのです。
また、東アジア世界が欧米諸国の経済進出を拒んでいた理由としては、華夷秩序があります。日本版の華夷秩序の表れが尊皇攘夷思想だったわけですが、儒教や朱子学の本場である清国の場合、華夷秩序はもっと徹底したものであり、欧米諸国は完全に蛮族として見下げられており、朝貢貿易を強いられていました。考えてみれば清国の王朝自体が蛮族の女真族が作った王朝なのですから変な話なのですが。
朝貢貿易というのは、哀れな蛮族がささやかな貢物を持ってきたのに対して、中華の帝王が寛大な心で莫大なお土産を渡してやるという、大変に不公平な貿易関係なのですが、これは結局、「中華には全ての品物が揃っているので蛮族の品物など必要ない。欲しいものがあれば恵んでやろう」という古代以来の尊大な発想が根底にあるのです。
もちろんシナ世界でも市場経済は発達していましたから、こんな時代錯誤な交易関係など普通にしていれば通用しないのですが、清朝としてはこうした建前上の華夷秩序を保つために外国製品には高い関税をかけて流通しないようにしていたのです。

つまり、他のアジア・アフリカの植民地化された地域とは違って、清国は関税自主権を行使できるほど、欧米諸国に対して対等以上の関係を維持していたということなのです。これによってイギリスから清国への輸出は振るわず、逆に清国からイギリスに多くの輸出品、特にお茶がたくさん輸出されて、18世紀においてはイギリスは対清国貿易は輸入超過で大赤字となっていたのです。
そこで19世紀に入ってからイギリスは赤字解消のために清国で売れる品物を調べ、禁制品のアヘンの需要が高いことに目をつけ、まずはインドの植民地化を進めつつ、インドで採れるケシの実からアヘンを精製して清国へ密輸し、その売買益で中国茶を買い付けたのです。それで今度は逆に清国が貿易赤字になったのです。
そこで清国側はアヘン密輸の取り締まりを強化して、イギリス商人の持ち込んだアヘンを没収して処分しました。実はこの時、アメリカ商人も同じようにアヘンの密輸に参加していたのですが、清国当局が「今後アヘン密輸をしない」という誓約書を出せば交易を許可するという条件を出した際にアメリカ商人はさっさと誓約書を出して清国との貿易を独占してしまったのです。
これによって苦境に立った現地のイギリスの監察官は強硬措置に出て、1839年11月、広州沖にイギリス軍艦を出動させて清国海軍の船団を壊滅させたのでした。これがアヘン戦争の開始です。
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