KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その90  アヘン戦争
この1839年の広州沖のイギリス軍艦の清国海軍への攻撃はイギリス現地当局の暴走ですが、彼らとしては、いっそここで戦争に訴えて軍事力の差を見せることによって立場を逆転させて、アヘン貿易を認めさせると同時に、朝貢貿易のシステムそのものをひっくり返そうと思ったようです。つまりイギリスにとってはあくまで限定的な戦争であり、清国を征服して植民地化するための戦争というわけではなかったといえます。
といっても清国は大国で、何しろ敵の本拠地でやる戦争でしたから、清国が国家が一丸となって立ち向かってくればイギリスとしても勝利を得るのは困難であったでしょう。しかしイギリス現地当局はインドなどでの経験から、アジアの大帝国の場合、こうした場合は戦争は限定的なものとなり、限定的である限りはイギリス側に負けは無いということは分かっていたのではないでしょうか。

しかし現地の暴走であるのは事実ですし、そもそも戦争の発端がアヘンの密売という不正なものでしたから、イギリス本国でもかなりの反対はあったのですが、国会で僅差で戦争開始は承認され、イギリス東洋艦隊が清国方面へ派遣されたのでした。
イギリスは東洋艦隊を天津沖に据えて制海権を握り香港割譲などを要求したのですが、これを清国が拒否したので、イギリス東洋艦隊が攻撃を開始しました。最新鋭蒸気船軍艦の圧倒的火力を自由自在に移動できるイギリス軍は自由に上陸地点を選ぶことが出来て、一方それに対する清国軍は全ての沿岸都市の防備を厳にするため兵力は分散せざるを得ず、戦争はイギリス側が一方的に清国西南部沿岸都市を各個撃破していく状況になりました。
そうして沿岸都市をあらかた攻略した後、1842年にはイギリス艦隊が揚子江をさかのぼって南京へ迫ったため、清国は屈服して南京条約を結びました。
南京条約において清国はイギリスに多額の賠償金を払った上、香港を割譲し、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めさせられ、関税自主権を放棄し、領事裁判権や最恵国待遇を押し付けられるという屈辱的条件を呑むこととなりました。さすがにアヘン貿易の公認はイギリスも恥に思ったのか講和条件には含まれず、密売が黙認される状態に落ち着きました。
また、この関税自主権放棄と領事裁判権と最恵国待遇の部分にアメリカやフランスも便乗して、それぞれ同じ条件の不平等条約を清国に結ばせるようになりました。

こうして清国の朝貢貿易システムは崩壊し、欧米諸国に対しては華夷秩序は無効化しました。しかしこれによって欧米諸国の製品が清国で大量に売れるようになったかというとそうではなく、外国人商人の商売が開港地の租界のみでしか許可されていなかったので内地奥深くまで外国製品が浸透しなかったのです。
これに不満を感じたイギリスとフランスによって1856年にアロー号戦争が引き起こされ、それによって清国は本格的に植民地化していくことになるのです。ですからこのアヘン戦争の終結の時点では清朝はそれほど大きな打撃は受けていないのです。戦争の舞台は首都の北京から遠く離れた華南地方以南で限定されていたからでした。
つまり逆に言えば、国土が攻撃されてもそれが地方の出来事であれば他人事のように限定的戦争にしてしまい、安易に講和してしまうという、清国の国家としての統一感の欠如が明らかになったともいえます。それを確信したイギリスやフランスが安心して、後にアロー号戦争を引き起こすこととなるのです。
清朝はあくまで王朝であり国家ではないということです。この後、清国が列強の植民地化されてもかなりの期間、清朝という王朝は揺るぎませんでした。それはつまり、清国という国家と清朝という王朝が一体化していないということで、国家としての清国というのはもともとバラバラな存在だったということなのです。

つまりアヘン戦争の教訓としては、国家が一つにまとまっていなければ外国に勝つことは出来ないということがあります。勝敗以前に、国家が統一体として機能していなければ戦争を局地戦で終わらせることが出来るという見込みを欧米諸国に与えてしまい、戦争を抑止するハードルの高さが下がってしまいます。
そしてアヘン戦争の教訓としてもう一つ重要なことは、最新鋭蒸気船の艦隊の威力は圧倒的であり、沿岸に設置した砲台程度では太刀打ちできないということでした。つまり迎え撃つ側も同等の威力を持った艦隊で対抗しなければ勝負にならないということです。
こうしたアヘン戦争の教訓は清国の為政者にも影響を与えたし、隣国である日本の徳川幕府当局にも大きな衝撃を与え、影響を与えることになるのです。

ただ、その受容の仕方において清国と日本とでは、中長期的に見てかなりの違いが生じてきます。清国においては西洋の武器の素晴らしさなど即物的かつ表面的な部分にのみ注目が集まり、清国が大国であり清朝が莫大な財産を持っていたため、それによって最新鋭の軍艦などを欧米から購入して揃えることにのみ重きを置いたのです。
しかし、欧米諸国の強さは武器の優秀さのみの問題ではなく、その背景にある国家システムそのものにあるのです。すなわち民主的な政体によるナショナリズムの高揚、それによって国民が一体化して国民軍を運用したり、商売を盛んにして国家を富ませたりして、それによって最新鋭の武器も自前で作れるし有効に運用も出来るのです。
そういう側面を見ずに表面的な技術のみに注目したため、清国は肝心の国家の統一性すら保つことが出来ず、欧米諸国にいいように蚕食されていくことになるのです。

一方、日本においては、江戸時代後期に全国統一の市場や流通網、情報網が整備されていた上に、尊王思想の普及によって国家の統一性はもともと確保されていました。これによって日本の場合は、清国の場合とは対照的に、イギリスの在日本の外交部や軍部は幕末期は一貫して日本との軍事衝突を避けることになるのです。
また日本の場合、支配者層が清国に比べて格段に弱体で貧乏であったので気前よく外国から武器を買い捲るという発想にはなかなかいかず、自前で製作するという方向にどうしても傾きがちであり、また、吉宗の輸入代替政策以来の伝統で、外来のものを自前のものにする創意工夫というものが民族性にもなっていたので、表面的な物質だけでなくその背景にある文明システムにまで考察が至るようになっていったのでした。
ただ日本の場合、徳川幕府の中枢においては清国のように国家システムはそのままで技術だけ拝借しようという傾向が強く、国家システムの抜本的な改革が必要であると考える人達はアウトロー的立場に多かったのですが、それが次第に立場が拮抗していくようになり、それらの葛藤が幕末期の最末期の武力抗争に発展していくのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。