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日本史についての雑文その93  全体主義
そうした近代日本が後に受け入れることになる欧米諸国の道徳的退廃、特にその植民地主義のゲームを引っくり返す際に大いに受け入れることになる最大級の道徳的退廃が、この時期にヨーロッパで出現していますので、ここでは少し蛇足かもしれませんが、どうせ何れは触れることになるのですし、ここで少しそれについても触れておきます。
それは民主主義の究極の進化形であるところの「全体主義」というもので、この時代、つまり19世紀前半においてはその名では呼ばれていませんが、その源流となるものがこの時代に様々な形態で発生しているのです。

全体主義とは、1925年にイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニによって初めて用いられた用語ですが、その起源は1789年以降の革命フランスに遡り、それを準備したルソーの1762年の「社会契約論」などの中にその原型は全て包摂されています。
人民を絶対的主権者とするルソーの唱える民主主義体制とは「多数者の専制」体制なのです。何故ならこの民主主義体制下では人民の意思を代表すると称する多数者に抵抗する者は存在せず、多数者の意思を反映する立法議会が絶対的な権力を握るからです。よって、元来、民主主義体制は専制体制へと容易に転換するものなのです。
特に、立法議会において多数者が一つの派閥や党を組織した場合、その党派の意思が絶対的なものとなり、公共の善や他の市民の権利を犠牲にすることも可能なのです。
そして多数者の専制は、1人の暴君による専制よりも何百倍も過酷で救いの無いものとなるのです。何故なら、抑圧側が多数である上に、被抑圧側が少数であるために抑圧に反対する声が掻き消されてしまうからです。
つまり最優越権力に何らの制限が課されない場合、自由が危機に瀕するのです。そして制限なき権力の付与は、道徳的判断を不要とするために、必ず人間を堕落させ、人民民主主義体制下においては、あらゆる悪と腐敗が横行し、この世の地獄が出現するのです。
こうした民主主義の危険性については、フランス革命という愚行によって余すところなく証明されました。しかし短期間の愚行であったフランス革命では十分には発揮されなかった民主主義の危険性もまだこのルソーの人民民主主義理論の中には存在したのです。

民主主義体制下では、人民は全員が主権者であり平等であることが要求されます。その場合、平等になった主権者たる人民は個々で完成された存在とされるために、相互間の依存関係が喪失し、相互独立的に、つまりバラバラの個になりがちです。そうすると、突然に社会がアナーキーな状態に陥ることがあります。フランス革命下ではこれが起きたと見ていいでしょう。
しかし、そういう急激な経過を辿らないで、民主主義体制下における平等化の進展が徐々に社会を蝕んでいく場合もあります。そのメカニズムは下記の通りです。
人々が平等化されていくと、次第に個人は埋没して精神は矮小化して知力も退化するようになります。特に選挙制度においてそうした知的に低級な人民全般に投票権が拡大することによって、被選挙者は当選のために知的に低級な事柄のみ主張することによって集票競争に勝つことのみを考えるようになり、しかもそうした選挙自体が極めて短期間で稀にしか機会が無い状態では、有権者たる人民の政治意識や知見は加速的に退化していくことになります。
現在の日本においても憲法改正や教育改革、国防などのような高尚なテーマは決して選挙民の興味を引くことはなく、自分の身の回りの金の問題か、あるいは他人の財布の中身に関するような話、そして低劣なスキャンダル合戦や権力を巡る恩讐劇の野次馬となることばかりが選挙民の主要な興味となっています。
3年や4年に一度しかない国政選挙で憲法や教育などのような継続して議論の必要な高度な政治議題を扱えるわけもなく、選挙民にとってはせっかくの数年に一度のお祭り騒ぎなのですから、せいぜい派手な政治パフォーマンスを見物して囃し立てたいと思うようになるものなのです。そうやって政治は実質を失い劇場型となっていくのであり、そうした乱痴気騒ぎを繰り返しているうちに国家の重要な部分が溶解していくのだとしたら、いったい民主主義というものは果たして国家や国民の益になるものであるのか、甚だ疑問に感じるほうが健全な感覚なのではないでしょうか。
一方、政府などの社会を代表する権力のほうは、個々人の存在感が小さくなるのに反比例してどんどん存在感が大きくなってきます。そして政府権力は人々の唯一の代理人となり、その幸福に関する唯一の裁決者となり、個々人に対して教導し統治する権利と義務を有すると見なされるようになるのです。
そして個人の自由意思は無用のものとなり、ごく狭い範囲に限定され、個人は政府権力に隷従して、国家のためにただひたすら働く家畜のような存在になるのです。こうして民主主義体制下では、平等と無知が進行するにつれて、国家権力の集中と個人の従属化は同時進行的に増大していくのです。
もともと平等と自由とは両立し得ないものです。例えば、善悪や真偽や美醜を峻別して善や真実や美を選択することは真正の自由といえます。言うなれば、自由とは「不平等を要求する権利」といえます。悪をなす人間と自分との間の不平等を自らに課するために善行を行う行為の自由こそ、自由の本質といえるでしょう。
平等というものはそういった区別自体を否定し相対化するので、人間のそうした選択の自由を妨害しようとするのです。そのために平等社会は真・善・美が消えた暗黒の闇となるのです。
こうして民主主義体制下で政治的な平等を得ることによって却って自由を失い隷従が不可避となることに気づいた人々は、自由であり続けることに絶望して、いずれ現れてくる独裁者に心の底で服従する願望を形成するようになるのです。

これが民主主義体制が全体主義体制に転換していくメカニズムなのです。すなわち全体主義体制とは、大衆の願望や支持によって成立するものであり、そしてそれは階級や家族や教会や村落共同体のような伝統的な中間組織が破壊されて個々が孤立させられた個人によって形成される大衆組織を基盤として進められるのです。この大衆組織の例としてナチス党や共産党が挙げられるわけです。
何故、後にナチスが全体主義体制構築に成功したのかといえば、それは第一次大戦後のドイツにおいて階級が崩壊し、大衆が勃興していたからであり、何故、後にロシア共産党が全体主義体制構築に成功したのかというと、共産党がテロルという名の大虐殺と密告制度によってあらゆる中間組織を破壊してロシア人たちをバラバラの個に分解したからです。
そうやって大衆化させられた主権者たる人民の支持を受けて全体主義体制を構築する大衆組織は、単に人民を支配するだけではなく、国家を超える人民主権の具現者として、国家そのものの上に立つ超越的存在となるのです。
これはまさに、主権者である人民の意思を「一般意思」として、その「一般意思」を理解して立法を行い得る、立法議会をも超越した唯一の存在としてルソーが規定した「立法者」そのものであり、全体主義体制はやはりルソー思想の当然の帰結だということになるでしょう。

そしてこの全体主義体制の立役者である大衆は、社会の中間組織によってのみ保持される道徳性や品格を欠いている故に、善悪の判断を逃避して、むしろ悪を選択しがちであり、弱いものや抑圧されたものに対しては同情よりも、むしろ無感覚か、破壊や嗜虐の情動に駆られがちとなるのです。
このように、古くからの伝統的権威のしがらみの拘束を脱したアトム化した大衆は、倫理や道徳に反した方向に突き進む傾向があり、このような大衆から成る社会は常識が意味を失った社会であり、いかに常識を冒涜しようとも罰を受けることが無い社会であるからこそ、全体主義体制下の社会は残酷・残虐な大規模殺人システムがフル稼働した暗黒社会となるのです。
こうした全体主義体制の特徴は、ルソーの「社会契約論」の段階で既にその設計図は全て包摂されており、実際、20世紀におけるナチズムも共産主義体制も、上記のようなルソーが構想した通りの暗黒社会を忠実に建設したのです。
この恐るべきルソーの数々の著作を、明治維新後の新生近代日本は民主主義思想のバイブルとして嬉々として輸入し翻訳して、有識者や学生、自由民権活動家はこぞって読んだというのですから、その悪影響は憂慮すべきものとなったのです。

その悪影響は現在において極大に達しており、例えば現在、共産シナや北朝鮮に相対する姿勢として、「民主主義、基本的人権、言論の自由、法の支配」を錦の御旗にして日本は堂々と、共産シナや北朝鮮にそれらの理念の実現を求めていこうというような「価値観外交」などというものを、結構まともな保守系の論者が唱えたりしているが、全くお笑い種でしかありません。
まぁ「言論の自由」や「法の支配」はいいでしょう。これらを本当に現在の日本人が理解して使いこなせているとは到底思えないのですが、まぁ錦の御旗にするのには適当であるといえるでしょう。
しかし、「基本的人権」は、そもそも人権などという概念がホッブズにすら危険視され、そしてルソーなどによって賛美された「万人が万人に対して闘争を仕掛ける権利」がその本質であり、国家を破壊するアナーキーや革命を肯定する理論に過ぎないのですから、そうしたアナーキーや革命の経験でいえば日本よりもよほどシナや北朝鮮のほうが先輩格にあたるわけで、それなのに日本が自慢げにそのようなものを掲げて、その実現をシナや北朝鮮に迫るなどというのは滑稽以外の何物でもないでしょう。
また、「民主主義」の究極の進化形が「全体主義」であり、現在の地球上で最も完成された全体主義国家がシナや北朝鮮である以上、シナや北朝鮮こそが、地球上で最も民主主義の進んだ国家であるということになります。そのような民主主義先進国のシナや北朝鮮に民主主義の実現を求めるとは、まさに「釈迦に説法」ではないでしょうか。
つまり、現在の日本人は民主主義というものの本質をあまりにも知らなすぎるのであり、民主主義や人権などという土俵の上で戦い続ける限りは、シナやアメリカの掌の上で転がされるだけのことであり、絶対にシナや北朝鮮に対して優位に立つことなど出来ないということなのです。

どうしてヨーロッパの民主主義国家はヒットラーの台頭を阻止出来なかったのか。また、どうして世界の民主主義国家は、そのヒットラーを倒したソ連の台頭を阻止できなかったのか。なぜソ連に常に出し抜かれて、いいようにあしらわれたのか。同様に、現在のアメリカや日本が何故、常に共産シナや北朝鮮にいいように振り回されてばかりいるのか。
これらは皆、民主主義国家の政治家というものが常に潜在的には全体主義体制を民主主義体制の更に進んだ姿であると感じて、それに平伏してしまっているからなのです。だから、どうしても全体主義国家の支配者に対して最初から位負けして交渉に臨むので、決して主導権を握ることがないからです。
全体主義体制と戦う時、民主主義のような、善悪の峻別を放棄したような価値相対主義的なものを掲げて戦ってはいけないのです。必要なものは道徳心なのです。全体主義体制を明確に「悪」と規定して、自らを民主主義者のような曖昧な存在ではなく、明確に「善」「正義」と規定することの出来る確固とした根拠のある伝統的道徳観こそが必要とされるのです。それでこそ真の「価値観外交」といえるでしょう。
そのようにして、ソ連を「悪の帝国」と規定して敢然と全体主義体制と戦い、とうとうソ連を崩壊させたロナルド・レーガンは民主主義者ではなく、まさにキリスト教という伝統的道徳観をバックボーンとした保守主義者だったということは、現代の日本人の「価値観外交」にとっても貴重な教訓として覚えておくべきでしょう。

現在の日本の「価値観外交」はこのように全く無意味なものであり、それゆえ結局は堂々たる交渉などは出来ず、何らかの取引をせざるを得ないのですが、現在の日本の政治家や官僚の信奉する価値観が、全く伝統的価値観にも善悪観にも根ざすことのない、価値観の名にも値しないような、無神論的エゴイズムの極致である絶対平和教であるがゆえに、最初から軍事オプションを放棄することが自動決定されてしまっているために、解決法としてはひたすら札束を積み上げて身代金や詫び金を貢ぎまくって全体主義国家の独裁者様のありえない好意を期待するしかないのであって、こんなものは交渉でも取引でもなく、また、これほど下劣な価値観というものもこの世には存在しないのであって、こんな無残な状態でよくもまぁ「価値観外交」だの「美しい国」だの言えたものだと呆れるしかないのです。
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