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日本史についての雑文その95  19世紀のフランス
ただ、サン・シモンやフーリエの構想した社会主義共同体というものは、まさにユートピアであり机上の空論、「何処にも無い場所」でした。サン・シモンやフーリエはそういった社会改造が資本家層の主導で行われると構想したのです。しかし七月革命後もそのような共同体は実現せず相変わらず貧富の格差は拡大していきました。
それは当たり前のことであって、資本家層がせっかく得た財産をわざわざ社会に差し出すわけがないのです。七月革命後のフランスは「市民王」ルイ・フィリップの立憲君主制のもと、資本家層だけに選挙権の限定された制限選挙を行い資本家層に都合のいい政治が行われ、貧富の格差は拡大していったのです。

そうなると労働者層には不満が溜まるようになりますが、この初期社会主義の理論では、こうした労働者層の不満を上手く掬い取ることが出来なかったのです。
そこで労働者層を中心に選挙権拡大を求める政治運動が起こるようになり、政府がそれを抑えようとしたため、1848年に労働者層とブルジョワ共和政派が共闘して二月革命を起こし、ルイ・フィリップとブルジョワ立憲君主制派を追い出して王政を廃止し共和政を敷き、男子普通選挙を採用しました。

ここでフランスは再び王政を廃止したことになりますが、これ以降フランスに王政が復活することはありませんでした。そしてフランスでは、フランス革命期の1792年以来、二度目の男子普通選挙制度の採用となりました。
実は他のヨーロッパの各国は普通選挙の導入には非常に慎重でした。フランスを除く世界の趨勢は急進的民主主義への抑制方向でした。何故なら、過去の忌まわしい記憶があったからです。1792年の革命フランスにおける男子普通選挙採用後の展開は、王政廃止、共和制宣言、ルイ16世の処刑、ジャコバン独裁、大虐殺、対外侵略、そしてナポレオン独裁へと繋がっていったからです。
そういった轍を踏まないように他の各国は普通選挙の導入にはとにかく慎重だったのです。結局、世界で普通選挙が普及したのは第一次世界大戦後のことでしたが、その後、世界は一気に全体主義化していき、それが第二次世界大戦につながっていったのです。第二次世界大戦は急進的民主主義の当然の末路だったのかもしれません。
その普通選挙を男子のみとはいえ、1848年のフランスは採用したのです。しかしその二月革命後の政体、つまり第二共和政はいきなり迷走し始めます。ブルジョワ層と労働者層が対立が深まり、6月には労働者が武装蜂起して政府に鎮圧されました。これで社会の安定を求めるフランス国民の大部分の心は労働者層から離れ、12月には国民の圧倒的支持を受けて、ナポレオン・ボナパルトの甥であったルイ・ナポレオンが大統領に選出されました。こうして市民革命の時代は終わりを告げたのです。

これで、サン・シモンやフーリエのユートピア論的な社会主義では、資本家と労働者の格差拡大という現実問題には対応できないということが明らかになったといえます。この問題を解決して経済的平等を確立しないことには社会主義の理想社会は作ることは出来ないのですが、普通選挙を実現したとしても、理想社会を築くことは不可能であるということが明らかになったのがフランス二月革命の結果だったのです。つまり、穏健な方法論では問題の解決は困難であると判断されるようになったのです。
そういうわけで、この二月革命を経験したカール・マルクスが1848年に「共産党宣言」を発表することになるのです。この中でマルクスは階級間闘争を奨励し、労働者層の国際的連帯によって資本家層を打ち倒す暴力革命を肯定していくことになるのです。そしてマルクスによってサン・シモンやフーリエらは「空想的社会主義者」として批判されていくことになるのです。
しかし実際にはマルクスの論もサン・シモンやフーリエの社会主義思想を継承したものであり、その行き着く理想社会の内容は十分に空想的なものであったのですが、その理想郷実現のための方法論が過激になっただけのことだったのですが。

そしてフランスにおいては1851年にはルイ・ナポレオンが議会との対立からクーデターを起こし、翌年には国民投票によって皇帝に即位し、ナポレオン3世となりました。結局、またもや普通選挙制度は独裁者の登場を招いたのです。
こうしてナポレオン3世による第二帝政が開始されたのですが、この第二帝政は1870年に普仏戦争で敗れてナポレオン3世が退位するまで19年間続きました。日本の幕末期に幕府に接触していたフランスとは、このナポレオン3世の第二帝政期のフランスだったのです。ちなみに日仏和親条約の締結は1855年のことです。
ナポレオン3世の帝位は大衆民主主義に立脚したものであったので、大衆人気の維持のために対外積極政策をとり、外征や海外への勢力拡張に明け暮れることになりました。1854年にはクリミア戦争に介入し、1856年にはアロー号戦争に参戦して清国への進出を開始し、1858年以降はインドシナの植民地化を進めていきました。

このように東アジアでもフランスは存在感を増していき、なんとかイギリス絶対優位の中に食い込んでいこうとしたのです。こうした流れの中で1855年に日本と国交を開き、徳川幕府に必死に取り入ろうとしたようですが、イギリス優位の状況は変えられなかったようです。
ただこの幕末期において、徹底して経済優先姿勢で内政面には口出しをほとんどしなかったイギリスとは対照的に、フランスは政治面でも日本、特に徳川幕府に対して結構口出しやアドバイスなどを熱心に行いました。まぁそれだけ一生懸命だったということなのでしょうが、そのお陰で、幕末日本においてはフランスの政治思想書が結構輸入されることとなりました。もちろん一般人は読みませんでしたが、幕府や各藩の実務者レベルや一部の知識人はそれらを目にすることも多かったようです。
ただ、この第二帝政期になると、サン・シモンやフーリエなどの初期の社会主義思想は「空想的」として省みられることはなかったので、だいたい日本に持ち込まれたのはルソーやモンテスキューのような人民民主主義や啓蒙主義に関する著作でした。
ルソーの著作そのものではないのですが、最初に日本で西洋近代民主主義思想を実践した人物は高杉晋作であり、高杉が1862年に藩命で上海に行った折、アロー号戦争後の清国社会の惨状と外国軍の精強に驚き、その強さの秘密が国民軍思想にあると見抜き、日本も早急に身分制度を撤廃し国民軍を育成せねば清国のような植民地状態になってしまうという危機感から、高杉は革命家になったのです。
高杉は彼の理論の実践のために長州藩に革命的状況を現出させ、身分制の枠組みを撤廃した奇兵隊という国民軍を組織し、次にはその軍事力でもって幕府を倒して日本全体を身分制度の無い国家にして、全国的な国民軍を作り西洋列強に対抗しようとしたのです。
高杉はその計画半ばで死去しますが、こうして倒幕運動の流れは作られていったのであり、その運動を正当化するための思想として、ルソー思想などは非常に有用であったのです。
そして、これらのフランス流の急進的民主主義の思想は、幕府を倒した後の1868年以降の明治初期の急激な社会変革や、明治前期の自由民権運動の思想的なバックボーンにもなっていくのです。しかしそれは、勢いや活気はあるものの、同時にまた、ルソー思想の元来持つアナーキーや全体主義への転化可能性の高さを考えると、非常に危うい近代日本の船出となったのでした。

さてフランス本国のナポレオン3世のほうは、1861年からメキシコに出兵して内政干渉を図りましたが結局失敗し1867年に撤兵し、威信が大いに低下しました。威信回復を焦ったナポレオン3世は対外強硬政策を強め、ヨーロッパにおける影響力を拡大しようとして各国の内政に干渉し、それらの紛争を通じて新興のプロイセン王国の宰相ビスマルクと衝突するようになりました。
そして1870年、ビスマルクの挑発に乗ったナポレオン3世は普仏戦争を開始し、敗北して国民にも見放され、退位させられ、第二帝政は終わりを遂げたのでした。
この際の混乱の中、パリの労働者階級が武装蜂起してパリ・コミューンの成立を宣言し、一時的に労働者層による自治を行いました。これがマルクスによって「世界最初の社会主義政権」などと絶賛されることとなるのですが、その実態は単なる暴徒の集まりで、国民の支持も得られず、内部分裂で自滅していきました。
この後、第三共和政が成立したのですが、統一ドイツ帝国宰相のビスマルクの巧妙な外交政策によってフランスは常に孤立させられることとなり、国際的な影響力を発揮できない状態が続きました。
このビスマルク体制の時代が、ちょうど明治維新直後の日本の近代化時代にあたっていたため、この時代に海外留学した日本の知識階級のフランス信仰が急速に冷めて、代わりにドイツ思想への信仰熱に移行していくことになったのでした。これにより、明治日本の統治階級はドイツを範とした政治体制作りに乗り出していくことになるのです。
そして、その後、1890年にビスマルクが引退した後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の対外膨張政策によって今度はドイツが孤立化していくこととなり、フランスは20世紀初頭にはロシアやイギリスと協調してドイツ包囲網を作っていくことになるのです。
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