KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その96  功利主義哲学
次に、ナポレオン戦争の戦勝国であったイギリスがナポレオン戦争後の民主主義思想の波をどのように受け止めたのかですが、基本的にはイギリスはナポレオン戦争中はバークに代表される伝統的価値観を保持する層の保守主義思想によって、ルソー流の急進的民主主義思想の流入を撃退することには成功しました。
だからこそ、イギリスはナポレオン戦争における完全勝者となり、その後、世界の覇権を握ることが出来たのだともいえます。そうしたイギリスのナポレオン戦争後の政治思想潮流は、やはり従来の「法(コモン・ロー)による支配」に基づいた保守主義思想が優勢であったといえるでしょう。

ただ、イギリスがナポレオン戦争を勝ち抜けた要因は、保守主義思想だけではありません。やはり産業革命の進展による資本主義の発達、圧倒的な経済力や産業力も大きな要因でしたし、それを支える新興ブルジョワ層や労働者層のナショナリズムも大きな要因でした。それは必然的にそれらの市民層の権利拡大、つまり民主化を、ある程度進めることにもなったのです。
つまりイギリスの19世紀の政治思想は、伝統的保守主義思想と、新興産業階級の推す民主主義思想との二本立てであったといえるでしょう。これが保守党と自由党という19世紀後半のイギリスの二大政党制に繋がってくるのです。

このイギリスの民主主義思想のほうは、フランスのように社会主義的なものにはなりませんでした。イギリスではフランスのように無制限に民主主義が称揚されていたわけではなかったので下層の労働者の発言力はフランスほど強くならず、資本家層の意向のほうが強く反映されたからです。
1832年から始まった労働者の選挙権を求めるチャーティズム運動も、1848年には鎮圧され、イギリスに社会主義的な経済思想が受け入れられることはありませんでした。
そういうわけでしたから、19世紀イギリスにおいては、まぁ保守主義思想のほうは基本的に変化は無いとして、民主主義思想のほうにおいては、経済面では、生産配分手段の社会成員での共有や経済的平等の実現などの方向には向わず、18世紀後半以来の古典派経済学の「自由放任」という名の完全な市場競争経済を採用しながら、その一方で、政治面ではルソー思想に忠実に、人間の理性によって国家を改造していこうとしたのです。このようにしてイギリス民主主義思想の急進化を図ったのがジェレミー・ベンサムでした。

ベンサムはフランス革命前後ぐらいから著作を始めましたが、彼は極端な理性万能主義者、人工的国家論者であり、イギリス保守主義の「慣習法による支配」を激しく攻撃し、人間の制定した法律、つまり人定法を万能視し、それを駆使して社会改造が可能であるとした人定法主義者でした。
ベンサムは主権は人民にあるとして、その主権の行使は法律の制定権によって行使されると規定しました。そしてその主権の行使、すなわち法律の制定による社会改造は「最大多数の最大幸福」を達成することが根底に据えられるべきであるとしたのです。これがベンサムの唱えた「功利主義哲学」でした。
ここでベンサムは人為的な法律制定や命令によって社会改造が可能であると述べているのであり、また、ベンサムは「幸福計算」といって、どんな行為の道徳的数値も機械的に算出可能であるという奇怪な計算方法を提案したり、こういうところを見ても、極端な人工国家論者であることは明らかといえます。
しかし、ベンサムの言う、主権者である人民の代理として主権を行使する「制定権力」という存在は、ルソーの言う「立法者」と同じく、全体主義体制における独裁者や独裁政党のごとき存在と同義だといえるでしょう。

そもそも、このベンサムの唱える「最大多数の最大幸福」を実現するためには、他人の幸福を減少せしめる行為を防止するために処罰まで行うということになっているのですが、「幸福」などというものは個人の不可侵の領域であり、一人一人の価値観次第のもので、個人の自由の最たるものです。
そこに国家権力が立ち入って一律の「幸福」を人工的に考案して、人為的な制定法という名の命令や強制によってそれを国民に押し付け、それを違反しないように個人個人を監視し処罰まで与えるなどという国家体制などというものは、まさしく自由の失われた全体主義体制そのものだといえるでしょう。
このような類の「幸福」とは、まるで北朝鮮の人民が地獄の日々で「将軍様のお陰です」と言って感謝を捧げる、国家権力に強制された全体主義の「幸福」と同じものであるといえるでしょう。
このような「幸福」の道徳的数値が計算可能だとベンサムは言いましたが、このような類の「幸福」には一片の道徳性も含まれないのであって、ゆえに計算は不可能ということになるでしょう。
つまりベンサムとは思想的にはルソーの忠実な弟子と言っていい存在であり、急進的な民主主義化によって全体主義的な監獄のような「功利主義」のユートピアを夢見ていた人物であったのですが、イギリスにおける保守主義の強固さによって、自由の砦である私有財産を切り崩すことが出来ない状況の中で、「経済的平等」を言い立ててアナーキー状況を作るというフランス革命の手法を諦め、人定法万能主義によって政治の回路で「上からの全体主義化」を推し進めようとした思想家だったといえるでしょう。
ただ、このベンサム思想はこの時点では単なる机上の理念に過ぎないものでした。何故なら、経済が完全自由放任である限り、政府は必然的に「小さな政府」になるのであり、そうなると、この功利主義的な全体主義体制を支える政府機関の経済的基盤というものが無いのです。
そういう意味でこのベンサムの功利主義は、全体主義体制へ至るには片翼飛行を余儀なくされた状況だったわけで、それはつまり、このベンサムの時代のイギリスがまだ全体主義の侵略を寄せ付けない健全さを持っていたということの表れだといえるでしょう。
つまり、「政治における功利主義」+「経済における自由放任」では、「不完全な全体主義」にしかならないのです。この「経済における自由放任」を「経済における設計主義」に近づければ近づけるほど、全体はより完全な全体主義に近づいていくのです。1832年のベンサム死後のイギリスの民主主義サイドでは、じわじわとそういう努力が続けられていくのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。