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日本史についての雑文その98  リバタリアニズム
このように、ミルの経済政策は古典派経済学+社会民主主義の様相を呈することになり、「大きな政府」の方向に傾き、社会主義に近づいたのです。社会民主主義は暴力革命は否定していますから、マルクス主義とは全く異質なものではありますが、政治面における功利主義にこの社会民主主義的な経済政策を合わせて、マルクス主義とは違ったタイプながら、ミルの思想はこれでベンサムよりも一歩、完全な全体主義に近づいたのです。
ただ、ここで注目すべきなのは、民主主義によって道徳が失われ、それによって古典派経済学社会のもとで欲望が暴走して貧富の格差が生まれ、それゆえに社会民主主義が受け入れられたということです。

このうちの最初の部分、民主主義によって道徳を失わせることにおいて大きな役割を果たしたのが、他ならぬミルの功利主義であったということが注目すべきことなのです。
つまり、ミルの功利主義によって道徳が失われ欲望が暴走し貧富の格差が生まれて、それによってミルの社会民主主義が受け入れられたということになるのです。これはある意味、見事なマッチポンプといっていいでしょう。

ミルの功利主義は「最大多数の最大幸福」という大原則はベンサムと同じなのですが、その「幸福」の定義においてベンサムの功利主義と大きく違っているのです。ベンサムは「幸福」を数量に換算できるものとしたのですが、ミルの場合は「幸福」は数量に換算できない質的なものだとしたのです。そしてミルは「幸福」とは「自由であること」としたのです。
ただ、ミルの功利主義の大問題は、この「自由」というものの定義が従来の保守主義思想で言うような慣習や道徳に基づいた真正の自由とは全く異質のものだという点です。それは「自由」と言うよりはむしろ「放縦」と言うべきものでした。
1859年刊行のミルの「自由論」によれば、この「自由」とは「他人の自由に迷惑をかけない限り、個人は自らの主権者であるのだから何事にも自己決定できる自由がある」という、誠に身勝手な自由でした。こうした考え方をリバタリアニズムといいます。
これはつまり、他人の迷惑にならない限り何をしてもいいということであり、これでは道徳が衰退するのも当然でした。ミルはむしろ意識的に、個人がこうした放縦ともいえる自由を行為していけば個人の慣習の軛からの解放を促し、社会の成員が全員こうした行為を行えば遂には慣習が粉砕され社会は改革されるという構想ももっていたようです。だからミルにとっては「自由」によって慣習に基づいた道徳観が衰退するのは全く当然のことだったのでしょう。

このミルの功利主義は「最大多数の最大幸福」、すなわち国民全体に平等に最大限の「自由」を与えるという考え方ですが、これは実際は二重の意味で国民を「自由喪失」の状態へ追い込む思想でした。
まず、このミルの唱える「自由」とは実際は身勝手な「放縦」に過ぎないものですから、伝統的な慣習に則った道徳を破壊します。しかし真正の自由とはこうした伝統的な道徳に基づいてこそ存続し得るものですから、道徳を破壊されたことによって真正の自由も死に絶えてしまうというわけです。
そして、更に、道徳が破壊されたことによって欲望が暴走し貧富の格差が増大し、それが「社会正義」の名のもとに政府による富の再分配を肯定する社会民主主義思想を呼び込むのです。しかしこの「社会正義」という概念は、「個人の自由や幸福」と「社会の自由や幸福」を「正義」の名のもとに合体させ、「個人の自由や幸福」を否定して「社会の自由や幸福」を優先させるという、自由の全否定の論理なのです。
このようにミルの功利主義は二重の意味で自由を圧殺に導いてしまう思想なのであって、ミル思想は、この「政治における功利主義」と「経済における古典派経済学+社会民主主義」の両輪の相乗効果によって、19世紀後半のイギリス社会において、空前の繁栄の下で道徳的退廃を進め、真正の自由をじわじわと衰退させつつ社会民主主義思想を普及させて、イギリス社会に徐々に全体主義の毒素を蔓延させていくという効果を発揮したのです。
考えてみれば、この功利主義も、社会民主主義も、両方ともルソー民主主義から生まれた兄弟同士のようなもので、この兄弟同士が掛け合い芝居をしながら相乗効果を発揮して、民主主義を発展させて全体主義への道を進めていったのは、むしろ当然のことだったのだといえるでしょう。
こうした試みが上手くいかないのは自明のことであって、ルソー民主主義から生まれた兄弟同士という似たもの同士で抑止効果を期待してもそれは難しいのであって、相乗効果しか生じないのです。やはりルソー民主主義に対抗するには保守主義的要素が必須なのです。それを欠いた処方箋ではやはり上手くいかないのです。

このように、社会民主主義的な「大きな政府」や社会主義的経済体制の弊害が昨今は言われています。いや、それはもう弊害などという生易しいレベルではなく、根本から間違いだらけのカルトの教説に過ぎなかったとして完全否定されようとしています。その判断におおむね間違いは無いと思います。
しかし、こうした社会主義や共産主義的な実験があまりにも見当違いであり、あまりにも悲惨な失敗に終わったことから、それらの思想が批判していた資本主義の問題点がまるで何ら問題の無いものであるかのように扱われ、まるで歴史の勝利者であるかのように扱われているのは大いに疑問のあるところです。
もしこういった「大きな政府」政策を迷妄であったとして廃棄したとしても、すると、そこには古典派経済学が再び立ち現れてくるのであり、また、ルソー民主主義のもう片方の車輪であるミル功利主義もまだ健在である限り、むしろミル功利主義に対する歯止めが効かなくなり、道徳の退廃した世界において古典派経済学を運用することによって、資本主義の暴走と道徳的退廃が加速度的に進行するという、古くて新しい問題に再び直面することになるのです。
つまり、社会主義や社会民主主義を排斥したとしても、それは古典派経済学が行き詰って資本主義の弊害が頂点に達していた19世紀前半時点、つまり「振り出し」地点に、ぐるっと一周して戻ってくるだけのことであり、結局はその最初の問題点、つまり「資本主義の暴走」に対処しなければいけなくなるのです。

ミル思想におけるルソー民主主義の弊害を根本的に克服するためには、その両輪である「ミル功利主義」と「古典派経済学+社会民主主義」を同時に克服しなくてはいけないわけであり、そのためには、そもそもルソー民主主義とは全く違った土壌のものである伝統的道徳観を復活させる保守主義思想しか処方箋は無いということです。
言い換えれば、伝統的道徳観の復活が前提であれば、「神の手」の効力もある程度復活するのであり、それならば古典派経済学のみでも経済運営も可能となってくるのです。
しかしやはり、産業革命や国際市場経済などの大きな状況変化によって、さすがに古典派経済学のみでは対応は困難であると予想されますので、ミル功利主義のような不道徳思想を排した上で、伝統的道徳観を復活させた保守主義思想で政治を行いつつ、経済面では古典派経済学+社会民主主義の大きな政府で歪みの修正を道徳観に則って行うという方法論あたりが妥当な対処法ということになるでしょう。
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