KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その99  19世紀のイギリス
1858年にはイギリスはインドを完全に植民地化し、その後、19世紀末までにアジア・アフリカ地域の西洋列強による分割はほぼ終了し、1900年の北清事変によって清国における列強の勢力範囲も確定し、20世紀初頭には列強による世界分割はほぼ完了しました。
その間、イギリスは最も多くの植民地を獲得し、世界中に散らばる植民地に暮らす様々な人種や民族を一括して統治するために、従来の国民国家を超えた、古代ローマのような「帝国」として国家を再編成する必要に迫られて「帝国主義」という国家思想が生じました。

これは、イギリス本国や各植民地内で序列や優先度、役割分担などの区別をして秩序を維持していこうという考え方でした。実際、多くの植民地は赤字経営であり、インドの黒字で他の赤字を補填している状態で、トータルとしての植民地帝国の維持のために「帝国」全体を1つの有機体として見る考え方は必要でした。

一方、1848年のウィーン体制の崩壊以降、ヨーロッパでは一気に民族主義が噴出するようになりました。ナポレオン戦争以後は国民国家の時代、つまりナショナリズムの時代となったのですが、イギリスやフランスのように1国1民族の国家と違い、東欧のほうでは国家という単位ではアイデンティティーを見出せない場合が多く、民族単位で統一国家形成へ向かったり、大国からの独立を図ったりするようになりました。そうして民族主義が盛んになってきたのです。
こうした民族主義が核となってドイツやイタリアが建国されたり、トルコ支配下のスラブ民族が独立運動を展開したりしていきました。こうした民族主義というものは、本来的には帝国主義思想とは対立していくものなのですが、この19世紀後半の世界においては、まだ西洋列強諸国の帝国主義のほうが優勢であり、少数民族や植民地住民は、「帝国」の臣民であることにアイデンティティーを見出すことのほうが多かったようです。
アジアやアフリカの帝国植民地において民族主義が強く意識されるようになるのは、20世紀に入ってからのこととなります。特にその重要なターニングポイントとなったのが1905年勃発の日露戦争ということになります。

こうした中、世界帝国となったイギリスはヴィクトリア女王の治世下、最盛期を迎え、「パクス・ブリタニカ」といわれる空前の繁栄を謳歌することとなります。しかし世界中に広がった広大な海外植民地は次第に帝国の重荷になりつつありました。
更に19世紀末になると新興ドイツが産業革命で大発展して工業力でイギリスに追いつく勢いを見せて、海外植民地を求めてイギリスに挑戦してくるようになり、またクリミア戦争敗北後に再び伝統的な南下政策をとるようになったロシアなどの新たな脅威から海外植民地を防衛するコストが重くのしかかるようになりました。そういう事情で、極東の植民地防衛のために1902年に日英同盟が成立することとなるのです。
ヨーロッパ方面においては、ナポレオン戦争後、長らくイギリスの覇権が続きましたが、19世紀末にドイツがイギリスの覇権に挑戦するようになり、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟に対抗するために、イギリスはフランスとロシアと三国協商を形成して対峙することとなります。

また19世紀後半のイギリス国内においては、資本主義は大発展し、その中でミルの功利主義によって道徳的退廃は進行し、拝金主義が横行し、貧富の格差は極限まで増大し、重大な社会問題となりました。そしてそれに対する処方箋として社会民主主義が浸透し、フェビアン協会を母体に1906年に労働党が結成されることになるのです。
また、更なる貧富の格差拡大の深刻さは、ミル流の古典派経済学の自由放任政策をベースとした社会民主主義的政策では事態の解決は困難であるとして、20世紀に入ってから、政府による市場介入や公共投資の促進、福祉国家化などを特徴とした、より「大きな政府」の度合いが強くなったケインズ経済学を生み出すことになります。
ケインズ経済学もあくまで功利主義哲学の延長線上にあり、単に経済面で古典派経済学の自由放任政策をミルよりも更に大胆に全て捨て去ったという意味で、更に社会主義や全体主義に近づいた思想であったのです。
つまり、ミル思想の跡を継いだケインズ思想において、「政治における(ミル流の)功利主義」+「経済におけるケインズ経済学」という、更に「完全な全体主義」に近づいた思想が生まれることになるというわけです。このようにして、民主主義勢力によるイギリス社会の全体主義化は徐々に進行していくことになるのです。そして、第二次大戦後、とうとう保守主義勢力を民主主義勢力が圧倒するようになり、ケインズ経済学を奉じた労働党政権によって福祉国家化が進められたイギリスは、英国病という病にかかり没落していったのでした。

ちなみに、このミルの「自由論」は明治初期の日本で翻訳されベストセラーとなり、ミル流の功利主義や、個人の人格の尊厳や個性や自由の尊重の思想が普及することとなりました。明治初期の日本でこうした思想が受け入れられたのは、急激な社会変革が求められていた当時の日本において、それを正当化する思想が渇望されていたからでした。
しかし、それによって明治前期の日本の一部における、やや放縦や軽佻浮薄の行き過ぎた世情を形成することとなったのでした。これも同時期によく読まれたルソーの著作と共に自由民権運動のバイブルとなり、こうした日本政界におけるもともとの思想的傾向が、後に20世紀になってから全体主義思想が受け入れられる下地となるのです。
また、「自由論」と共に、明治初期の日本においてはイギリス流の古典派経済学が輸入されてお手本とされるようになりました。つまり自由放任政策というわけです。これは、当時の世界一の経済大国はイギリスでしたから、新興国の日本としては経済はイギリスをお手本にしようということだったのです。
ただ、実際問題、当時の明治政府は本当に貧乏で、どちらにしても「大きい政府」など作れるわけもなく、「小さい政府」に徹して、ひたすら自由放任で民力に頼りきるしかない状態であったので、古典派経済学しか選択肢が無かったのが実情です。
つまり、近代日本においても、ミル功利主義によって道徳観が退廃し、更に産業革命が進展するにつれて古典派経済学の弊害が助長されて、弱肉強食の世界が現出し、経済格差が拡大するという「資本主義の暴力」という事態が進行することとなったのでした。
もちろん、幕末期から明治初期にかけては、日本経済自体が西洋列強による「資本主義の暴力」によって搾取され潰されてしまう危険があったわけで、まずはそれを撥ね付ける戦いをする必要があったわけですが、それがひとまず一段落したら、今度は日本国内において「資本主義の暴力」による諸問題が生じてくることとなったのです。

そして、それに対処するために、大日本帝国憲法において行政権の強い福祉国家というコンセプトが打ち出され、つまり「大きな政府」によって資本主義によって生じた歪みを修正していこうという社会民主主義的方向性が示されたのです。
ミルの「最大多数の最大幸福」政策、つまり政府主導の「上からの幸福の強制」を重視する国家観がオーストリアの法学者のシュタイン経由で日本の伊藤博文にも伝えられ、大日本帝国憲法にも影響を与え、近代日本を行政権の強い福祉国家への志向を内包した国家へと変えていったとも言えます。
ただ、ここで、不道徳的教説である「ミル功利主義」を放置しておくと、不道徳の蔓延が全体主義化を促進するという悪循環に陥っていくのであり、明治日本はそこの手当てをするために教育勅語によって伝統的道徳観の復活を図ったのでした。
これにより、教育勅語によって道徳が復活し、ミル功利主義の毒を中和し無害化し、古典的経済学の「神の手」の機能を復活させつつ、社会民主主義の弊害も最小限に抑えつつ、伝統的道徳観に基づいた富の再分配も図ることが出来るようになったのです。つまり行政権の強い「大きな政府」も伝統的道徳観に基づいている限りは、その弊害も最小限に抑制され得るということです。

しかし、この後、20世紀に入ってからマルクス主義が輸入されてから、それに対抗するために「現人神信仰」というものが台頭してきて、それに比例するように教育勅語の道徳観が有名無実化していき、それによって、大日本帝国憲法の社会民主主義的な「大きい政府」論は、官僚主導の統制国家化、つまり全体主義国家化という、悪い面が出てくるようになってしまったのでした。
また、そうして教育勅語が有名無実化することによって、「神の手」が機能しなくなり、また道徳観も退廃したことによって、資本主義の弊害が頂点に達し、それが更に社会民主主義化、社会主義化、ひいては共産主義の流行を生み、全体主義化への暴走を促進していき、結局、第二次大戦へと至ることになったのでした。
一方、ミル思想から発展したケインズ経済学は大恐慌後のアメリカのニュー・ディール政策の指針となり、第二次大戦後に日本に占領軍官僚として乗り込んできた米軍のニューディーラー達が日本においてケインズ経済学的政策を押し付け、それに戦前から生き残った日本の社会主義的官僚機構が乗り、戦後日本をケインズ主義的社会民主主義国家へと改造していったのでした。
この戦後的「大きな政府」が明治憲法下の「大きな政府」志向と大きく違っていた点は、前者からは教育勅語的な伝統的道徳観が欠如していたことでした。これによって、戦後日本は道徳的退廃が全体主義化を促進するという悪循環に陥り、戦前の遺産の有効活用と全体主義特有の発展とで豊かさは実現しましたが、結局は「大きな政府」の弊害は頂点に達することになったのでした。
そして現在、「大きな政府」を放棄し、古典的経済学への回帰、つまり市場原理主義への移行によって「戦後レジームの脱却」が謳われていますが、ここに伝統的道徳観が欠如したままになっているために、このままでは古典的経済学の「神の手」は機能せず、単に弱肉強食の世界が現出するだけのこととなり、古典派経済学の悪い面だけが出てくることになってしまう可能性が大きいといえるでしょう。
これは結局、ぐるっと一周回って振り出し地点、つまり資本主義や市場原理主義の暴走にいかに対処すべきなのかという地点に戻ってきただけのことであり、大日本帝国憲法と教育勅語の制定以前の「資本主義の暴力」の状況に戻ったのだと捉えるのが適切であるように思えます。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。