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日本史についての雑文その100 ドイツ統一思想
次に、ナポレオン戦争後の民主主義思想の受容について、ドイツの場合について見てみます。ドイツの場合、ナポレオン軍を寄せ付けなかったイギリスとは違い、ナポレオン軍の侵略を受け長期間の占領支配を受け、1813年のライプツィヒの戦いでナポレオンが敗れたことによって解放されました。
そしてドイツが最もイギリスと違っていた点は、この時期のドイツ民族、つまりゲルマン民族がまだ統一国家を形成しておらず、プロイセンという有力な領主勢力はあったものの、多くの小領主の小国家が乱立しているだけの封建制社会のままだったということです。これは比較的、江戸時代の日本と似たような状況であったともいえるでしょう。

そうした状態のドイツ諸邦がナポレオンの侵略を受け強圧的な支配を受けたわけですから、基本的にはナポレオン軍の持ち込んだ民主主義思想の浸透に対して抵抗力の低い脆弱な状態であったといえます。そして同時に、逆説的ではありますが、その脆弱さの裏返しとして、強烈な抵抗感情が発生したともいえます。
ナポレオン軍は国民軍に編成されていて圧倒的な軍事力を誇っていましたから、これに打ち勝つためには相手側も国民軍を作り上げねばなりません。国民軍は愛国心を持った献身的な国民という存在の出現が前提ですから、国民軍を編成するとナショナリズムが高揚します。そして国民が自国を愛するためには、国家の政治に対して当事者意識が必要ですから、必然的に民主主義思想の普及を促します。
ドイツ諸邦においてもこうした図式が展開され、特に国家統一の無い状態でしたから余計に強くルソー的民主主義思想は浸透していったのです。そしてそうして浸透した民主主義思想やナショナリズムを使って、その本家であるフランスやナポレオンに対する激しい抵抗運動が繰り広げられたのです。
1813年のライプツィヒの戦いはそうやって編成された各国の国民軍がとうとうナポレオンを打ち破った記念碑的な戦いでありましたから、ここにおいてドイツでもナショナリズムの盛り上がりは最高潮に達したといえるでしょう。
ただナショナリズムといっても、ドイツの場合はまだ統一国家も無い状態でしたから、そのナショナリズムは民族主義の形をとり、まずは「ドイツ民族の統一国家を作ろう」という方向に向かったのでした。こうして民族主義というものが「ドイツ国家統一」という目的達成のためのイデオロギーとして19世紀ドイツにおいて興り、これがウィーン体制崩壊後は東欧に拡散して汎ゲルマン主義や汎スラブ主義となり、また更には日露戦争後にはアジア・アフリカにも広まっていくことになり、帝国主義に対抗するイデオロギーとなっていくのです。

ちなみに近代日本においては、この民族主義というものは受容されませんでした。それは必要が無かったからです。民族主義というものは、その民族が統一国家を形成していない場合に近隣の強大な外部勢力によって脅威を与えられている場合や、大帝国の支配下にあるような場合に、その現状を打開して国家を所有するために生じてくるものです。
元来は日本民族は混血民族ではありましたが、長い歴史の中で文化的統一が達成されて、外部の強大勢力の脅威に晒されるようになった幕末や明治初期においては既に日本民族は統一した文化を有する一個の民族として完成されており、その日本民族が単一で、日本という1個の国家を有しており、日本の外には日本民族は存在していませんでしたし、日本の中に日本民族以外の民族も、アイヌや琉球民族という少数の例外を除いては生息していませんでした。
ですから、近代日本には「民族主義」というイデオロギーの必要性がほとんど無かったのであり、それゆえそれが輸入されることもありませんでした。そういうわけで日本人には「民族主義」というものの本質はなかなか理解できないのです。
それはつまり、民族主義に由来する敵対感情や差別感情というものが無いということであり、非常に平和的で良いことではあるのですが、しかし実際の国際社会というものはそうした敵対感情や差別感情が渦巻く世界であるのです。それが本質的に理解できない日本人は、日露戦争以降、しばしばチグハグな対応を招くこととなり、それが後に禍根となってくることになります。

さてドイツにおいては、1814年にハイデルベルヒ大学のティボー教授が「ドイツにおける普通民法の必要」という冊子を刊行し、その中でドイツ民族の統一は法律の統一によって為されるべきであると説きました。これは統一された民法の下でドイツ民族を生活させて、同一の権利を享受させることによって民族統一を成し遂げるという考え方でした。
そもそもルソー思想の核心は「立法行為による国家破壊」であり、それを引き継いだドイツの新たなナショナリズムが「立法行為による国家統一」が可能であると考えたのは、至って順当な流れであり、当然の帰結でした。
つまり立法機関に万能の権限があり、どんな内容の法律でも自由自在に制定することが出来るし、どんな内容の法律でも実効力を発揮するものだということです。だから立法によって国家を破壊することも可能であるし、逆に立法によって国家を建設することも可能だというわけです。
つまり、ここでティボーが述べているのは、ドイツ統一の人工的な法律を制定して、民族統一を成し遂げようという意味で、これは極めて人定法主義的な考え方だといえます。
そして、これに対してベルリン大学教授であったフリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーが反駁し、民法典論争が起きたのです。サヴィニーは法は自然的に発達するものであって製作するものではなく、法律の作成によって国民の権利を創造することは出来ないと主張しました。法は国民精神の現れたものであり、まず国民側が自己の権利の内容について国民一般に共有されるものを確信してから民族統一の法律は作成すべきだとして、ティボーの拙速を戒めたのでした。
サヴィニーの提案は、まず法学を盛んにして、ドイツ国民の精神を明らかにし、民族の権利思想の統一を待ち、その後にそれに基づいて民族統一の法律を作成しようというものでした。このように、普遍的な法律を上から与えるのではなく、歴史上の法の中から民族精神を発見してそれを法律に発展させようというサヴィニーの思想からドイツの歴史法学派が興ることとなったのです。

結局、この民法典論争はサヴィニーら歴史法学派の勝利に終わり、ドイツではこの後、法学が大いに発展することとなったのですが、このサヴィニーの考え方にしても、ティボーとの違いはその手順の順序が違うということと、法律の根拠を普遍的価値観とするか歴史的価値観とするかの違いがあるという点であり、「法によって国家統一を成し遂げる」という19世紀ドイツ特有の法思想という点では共通していました。
つまり、この後ドイツは国家統一に向かって進んでいくことになり、それは様々な紆余曲折を経て1871年にはドイツ帝国の成立によって結実するのですが、それまでの間、そしてその後も一貫して、法律こそがドイツ建国運動の重要な要素であり続けることになったのです。
これによってこの後ドイツでは法律というものの存在価値が際立って高まることになり、ドイツの法学はヨーロッパ最高の学問水準にまで発展するのです。それゆえに、1868年に近代国家へと船出した日本が近代法典を本格的に整備しようとした際にドイツをお手本とすることになったのです。
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