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日本史についての雑文その101 19世紀のドイツ
このようにナポレオン戦争後にドイツ諸邦において法律が重要視されるようになると、ドイツの政治面では法律至上主義の考え方が生じてくるようになり、それが19世紀末には「法治主義」として完成されるようになります。
法治主義とは、単に「法律を守りましょう」みたいな意味ではなく、法律が国家権力の行使を厳格に定め、特に行政と司法を法律に従って行わせるようにする考え方です。これは立法権が行政権や司法権に優越する考え方であり、明らかにルソー思想の影響を受けた考え方です。

この「法治主義」は英米法における「法による支配」とは全く違う考え方であり、慣習や伝統を重んじる「法による支配」とは違い、「法治主義」はその法律が慣習法であれ制定法であれ、人定法であれ実定法であれ、そんなことはお構いなしに、とにかく法律が行政や司法を支配するという考え方でした。
ですから、この「法治主義」が慣習に基づいた伝統的道徳観に基づいた穏便な実定法と関連しているうちは国民にとっては特に問題は生じないのですが、この法治主義が人定法主義と結びついた時には、国民に対して恐るべき牙を剥くという可能性もあるのです。
つまり、「制定手続きが合法であればどんな内容の法律も制定できる」というのが人定法主義であり、「合法的に制定された法律に従った行政はどんな内容のものであっても合法であり何ら非は無い」というのが法治主義であるので、この2つが結びつくと、例えば、ユダヤ人虐殺を正当化する悪法に則って合法的にユダヤ人絶滅政策が実行されるヒットラー・ナチズムという名の「法治国家」も生まれ得るということになるのです。
しかもこのタイプの「法治国家」においては、そうやって抑圧される者への救済すら困難なのです。何故なら、このような「合法的」な悪政に反するような行政的措置や司法的措置は、行政権や司法権が制定法の支配下にある限り、実質的に不可能なのだからです。
法治主義と人定法主義が結びついた時、このような危うい状況が生じるのです。ティボーの提唱した方向性は、まさにこの最悪の道だったのであり、ナポレオン戦争後のドイツにおいては一見、これがサヴィニーの歴史法学派の出現によって阻止されたように見えます。しかし実際はサヴィニーもまた人定法主義の方向へ傾いていってしまったのです。

それはサヴィニーが歴史法学の方法論として、民族精神を発見するための歴史的な法のテキストとして、ローマ法大全を選んだからです。ローマ法大全というのは、古代ローマ帝国の慣習法や制定法を集めたもので、東ローマ帝国の初期の皇帝であったユスティニアヌス1世が編纂させたものです。
しかしドイツ人、つまりゲルマン民族の民族精神を見出すためにローマ法大全を使うというのは不可解です。何故なら、古代ローマ時代にブリタニアと呼ばれたイギリスや、ガリアと呼ばれたフランスならばともかく、ゲルマニアと呼ばれたドイツは一度たりともローマ帝国の版図であったことはないからです。つまりローマ法大全をいくら探っても、そこにはドイツ人の民族精神はありません。あるいは、ローマ法大全を貫く精神をドイツ人の民族精神として受容することも困難なことです。
それでは何故ここでローマ法が持ち出されてきたのかですが、それはまずは単にこの時代において、まとまった形で編纂されていた法のテキストが3種類しか存在しておらず、そのうちローマ法大全がドイツ民族にとって一番馴染めそうだったからでしょう。
その3種類とは、まずハンムラビ法典、ローマ法大全、そしてナポレオン法典でした。ハンムラビ法典は古代メソポタミアのもので、あまりに古すぎましたし近代ヨーロッパ社会には馴染まないものでした。またナポレオン法典は、反フランス、反ナポレオン感情の強かった当時のドイツ人に受け入れられるようなものではありませんでした。
むしろ、ナポレオン法典が非常に整理されており出来栄えのいいものであったので、フランスへの対抗意識の強かった当時のドイツ人たちは、ナポレオン法典に負けないぐらい整理されて立派な、名前の通った法典を看板として掲げたいという欲求を自然に持つようになったのです。
そうなると、未だまとまっていないゲルマンの慣習法よりも、体系的に整備済みのローマ法大全のほうについつい手が伸びてしまうのです。やはり出来るだけ早く民族精神の統一を図って国家統一を果たしたいという想いも強かったので、どうしても、確実だが遠回りな道よりも、多少の難はあっても近道を選んでしまうものです。
また、ルネサンスや啓蒙主義の時代において、古代ローマ世界が高く評価されるようになり、ローマ法大全こそは古代世界の叡智そのものとして良いイメージがありましたし、実際には古代においてその恩恵に浴していなかったドイツ人たちは、ローマ帝国旧領であったイギリスやフランスに対して劣等感を抱いていました。
その劣等感の裏返しとして、ドイツ人はイギリス人やフランス人以上に、古代ローマや、その源流ともなった古代ギリシャの事物を、もともと自分達には縁もゆかりも無いにもかかわらず、必要以上に崇め奉る傾向が強くなったのです。

そういうわけで、サヴィニーも、多くのドイツ人も、ローマ法大全に引き寄せられていったのです。サヴィニーはドイツ法学をローマ法の延長線上に捉え、ローマ法大全の重要な構成部分を抽出してそれをもってドイツ法学の体系化を図るようになりました。
こうしたサヴィニーの方法論は概念法学と呼ばれ、ドイツ近代法学の主流となっていきましたが、これは法の歴史的研究からはどんどんズレていき、体系的研究に傾斜していくものでした。
そうして遂に1840年にサヴィニー自身が歴史法学との決別を宣言してしまい、それに対して歴史法学派が猛反発し、歴史法学派は、サヴィニーのような体系的研究を重視するローマ法学派と、歴史的研究を主とするゲルマン法学派に分裂することとなりました。
このゲルマン法学派はドイツ民族の慣習法であるゲルマン法を重視し、そこからドイツ民族の精神を発見し、新たな近代ドイツ法の中核に据えようという考え方であり、これはまさに英米法における「コモン・ローによる支配」と同じ発想であり、実定法主義といえるものであったと思います。
しかし19世紀後半のドイツではこのゲルマン法学派は主流にはなり得ず、ローマ法学派に押されて最終的には消えていってしまいました。ただ、その消え行く前に、ゲルマン法学派の系譜にあったウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタインによって、その歴史法学的方法論は、1882年に近代憲法典の調査のために渡欧してきていた伊藤博文に伝えられ、実定法主義の命脈は大日本帝国憲法に受け継がれていくことになるのです。

一方、ドイツ本国においてはローマ法学派が主流を形成するようになり、古代ローマ法を近代的に体系化した近代ドイツ法が整備され、そしてティボーやサヴィニーが構想したように、その近代ドイツ法によってドイツ国民の統一した国民意識が成立し、それが1871年のドイツ帝国の成立に繋がったのです。
しかし、この近代ドイツ法というものは、ローマ法を基にしたものですから、ドイツ民族の慣習法に根ざしたものではありません。つまり「法(コモン・ロー)による支配」を受けていないということになります。言い換えると実定法ではなく、人定法ということになります。
確かにローマ法という、古代ローマ人にとっての慣習法を基にしているのですから、全くの人工的立法ではないのですが、それはあくまで古代ローマ人、精一杯拡大解釈しても、古代ローマ帝国民であったことのある人の血をいくらか引いているイタリア人やイギリス人、フランス人などにとってのコモン・ローなのであって、ドイツ人にとってのコモン・ローにはならないのです。
ですから近代ドイツ法というものは、やはり実定法ではなく、本質的には人定法ということになるのです。つまりドイツ帝国は人定法主義に基づいて建国された国家ということになります。そして、同時にドイツ帝国は法治主義の徹底した国家でもありました。この法治主義と人定法主義が結びついた時、ヒットラー・ナチズムという名の恐るべき「法治国家」へと至る道が一直線に開かれるのです。

しかし実際のドイツ帝国は、すぐにはそういう逸脱には至ることはなく、大いに発展していくことになります。これは、法治主義や人定法主義が暴走しないように、重しとして皇帝大権という究極の権力が設定されていたからです。
いや、皇帝がその強大な権限を行使して専制政治を行い、恣意的な立法を濫発すれば、皇帝大権もまた人定法主義を暴走させる要素になるのですが、建国から暫くのドイツ帝国ではそういうことは起きませんでした。
それは皇帝大権を輔弼する役割として、宰相ビスマルクが強大な権限を有しており、しかも彼が非常に賢明な政治を行ったからでした。
ビスマルクは普仏戦争に勝利してドイツ帝国を建国してからは、フランス封じ込めのためにバランス・オブ・パワーの外交を展開し、イギリスと常に協調して、ロシアと友好関係を築き、フランス包囲網を築きました。そして国内産業を大いに発展させて、ドイツをイギリスに匹敵する経済大国に育て上げたのです。
またヨーロッパ最強の陸軍を作り上げ、ドイツを軍事大国にも育て上げました。ちょうどこのビスマルク時代が近代日本が諸制度を整える時代にあたっており、日本政府首脳はこの成長著しいドイツを目標とするようになり、思想、法制度、そして陸軍はドイツ式を採用することとなります。

しかし、こうしてビスマルクによって強大なドイツ帝国が成立すると、遂にはイギリスをも凌駕してヨーロッパの覇権を望む動きが起こってきました。ドイツは国家統一が遅れたので植民地獲得競争に出遅れており、ドイツの経済力や軍事力が強大化すればするほど、市場としての植民地を十分に持っていない現状に対する不満が膨らんでいきました。
そこで、1888年に即位した皇帝ヴィルヘルム2世は植民地再編を目指す世界戦略を抱き、対外的に積極政策を模索し始めましたが、ビスマルクはそれに反対しました。すると皇帝は1890年にビスマルクを解任し、皇帝親政を始めました。
ここから、ビスマルクという制止役のいなくなった皇帝大権の暴走が始まり、皇帝大権の下で人定法主義と法治主義の悪循環が回り始め、ドイツ帝国は誤った方向へ進み始めます。海軍力でイギリスを超えようとしてイギリスと建艦競争を繰り広げてイギリスとの緊張を高め、またバルカン半島政策を巡ってロシアと対立し、フランスがイギリスとロシアに接近することを許してしまい、いつの間にか対仏包囲網が対独包囲網に変わるようになっていったのです。
こうして20世紀初頭にはドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟と、イギリス、フランス、ロシアの三国協商の対立図式がヨーロッパにおいて出現し、これが第一次世界大戦に繋がっていくのです。
そして、第一次世界大戦を敗れたドイツはドイツ革命によって皇帝大権すら無くし、剥き出しの法治主義と人定法主義の悪循環の支配するワイマール共和国体制を迎え、それは必然的に、「合法的」にヒットラー・ナチズムという「法治国家」に一直線に繋がっていくことになるのです。
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