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日本史についての雑文その108 文明への呪詛
とにかくこのようにしてマルクスはヘーゲル哲学を超越した過激思想を展開し、プロイセン政府への批判のトーンも強めていきましたので、1843年には政府の言論弾圧を受けて新聞社での職を失い、失意の中でフランスへ亡命しました。
しかしフランスにおいても共産主義活動を行ってプロイセン政府への批判も継続したため、プロイセン政府の意を受けたフランス政府によって1845年に今度はベルギーに追放されました。このように、国家の圧力によってマルクスは無国籍者のように生きざるを得なくなり、同じくユダヤ人であったルソーのように、国家という存在への呪詛の想いを強くしていくこととなっていったのでした。

そうしたマルクスの国家呪詛の傾向は、1848年にフランスで二月革命が勃発した後にパリに舞い戻り、そこで社会主義思想の穏健路線の挫折を実見した後に発表された「共産党宣言」において顕著に表れています。
マルクスは、サン・シモンやフーリエの社会主義を「空想的社会主義」として批判し、階級闘争を肯定し、万国の労働者に団結を呼びかけ、植民地の民族解放を主張し、共産主義体制への移行の過渡期としてプロレタリアートによる革命的独裁の必要性を訴え、そして「共産主義者は、彼らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆する事によってのみ達成出来ることを公然と宣言する」という、暴力によってのみ共産主義革命が達成できるという「暴力革命必然論」を唱えるに至ったのです。
これも実際は共産主義社会は実現しなかったわけですから、単に暴力革命によって国家を転覆させて一党独裁の全体主義体制を作り、その地獄を延々と維持するという言説でしかなかったことになります。
この全体主義体制は「ソ連型社会主義」と呼ばれましたが、マルクス自身は自身を社会主義者と見做したことは生涯ありませんでした。マルクスはあくまで共産主義者のつもりだったのであり、サン・シモンやフーリエのような「社会主義者」とは違う存在であるということだったのでしょうけれど、実際にマルクス主義思想の実践の果てに辿り着いた場所が社会主義という名の全体主義であった以上、マルクスもまた社会主義者であり全体主義者であったということになるでしょう。

その後、1849年以降はマルクスはロンドンに移住し、産業革命と資本主義の発達によって古典派経済学の限界が露わとなりつつあった中、残りの生涯を費やしてイギリス古典派経済学の研究に没頭し、資本主義経済の仕組みと、産業革命後の資本主義経済の問題点を徹底的に分析し、唯物史観を完成させていくこととなりました。
その研究の成果として刊行されたのが「資本論」であり、1867年に第一巻が刊行されました。マルクスが生前に刊行できたのは第一巻だけで、1883年の彼の死亡時には膨大な遺稿が残されており、それをエンゲルスがまとめて、1885年に第二巻、1894年に第三巻が刊行されました。
マルクスの暴力的な革命論が説得力をもって広く受け入れられていった理由は、この「資本論」において資本主義の分析を理論的武器として提供し得たからでした。
その理論を大雑把に言うと、社会の経済関係というものは人間の意図や意思からは独立して発展するもので、むしろ経済関係によって社会の上部構造である文化や制度も左右されるのであり、また国家というものは支配階級が自らの都合のいい経済関係を社会に強いるための機関であるから、現存の経済体制が生産力の発展の助けにならなくなった時、必然的に革命が起こり、支配階級が交代するというものです。
そうした基本構図があり、それに則って世界史は原始共産制→奴隷制→封建制→資本主義→共産主義というように社会が段階的に進化していくとしたのです。これが唯物史観であり、典型的な歴史法則主義であり、予言者的教説というわけです。もちろん、こんなものには全く根拠はありません。
そして、資本主義から共産主義への移行のプロセスにおいて、マルクスはヘーゲルの弁証法を援用しています。すなわち、資本家階級の支配する資本主義体制が究極まで発展した時点でもう資本主義では生産力の発展が望めなくなり、そこで必然的に革命が起こり支配階級の交代が起こり、労働者階級の独裁体制が打ち立てられ、更にその後、資本主義の成果を止揚した共産主義体制という理想社会が到来すると予言したのです。
つまり、資本主義体制がテーゼであり、プロレタリア独裁体制がアンチテーゼ、そして共産主義体制がジンテーゼに相当するというわけです。しかし、そもそもこの弁証法というもの自体がカルトの教説であり、真理への到達があり得ない手法ですから、歴史がこのような予言の通りに進化するわけがないのです。

この唯物史観は結局、革命は必然の運命であるとして、暴力革命を正当化する論理なのであり、また、一党独裁の全体主義体制も理想社会実現の前段階なのだから必要なものだとして、全体主義体制をも正当化する論理でもあったのです。
そして、全ては必然の運命なのだという囁きは大衆の秘かな諦めや盲従の欲求を心地よく刺激し、現状の資本主義社会も結局は止揚されて理想社会の糧となるという意味において全否定はされていないという、一見ソフトな語り口もインテリ達にとって受け入れやすいものとなっていったのでした。
また、マルクスの死後にその革命事業を引き継いだエンゲルスは、平和的手段で社会革命を遂行することが可能であるという説を唱えたので、実際に資本主義の暴走の弊害が深刻なものとなっていた19世紀末のヨーロッパにおいてマルクス主義思想は暴力革命論としてではなく、精神的運動や穏健な改革運動の理論として広く支持を得ていくことになりました。
しかしマルクス主義思想の本質は「暴力革命必然論」なのであり、暴力革命によって政治体制を打倒して前衛による独裁体制をまず築くことにあるのです。エンゲルスの唱えたようなソフト路線は単なる支持拡大のための偽装に過ぎなかったのです。
マルクス主義の本質に最も近かったのは1895年に共産主義運動に身を投じたロシア人活動家のウラジーミル・レーニンの唱えた説であり、経済よりも政治活動の重要性を唱え、現体制打倒を促しました。これが、プロレタリアートの意識を先取りして体現した前衛政党が革命を代行することが出来るとしたボリシェヴィキ理論の基礎となったのです。そして、武力による革命と、前衛政党である共産党による独裁を強調したのです。
こうしたレーニン一派の唱える説は19世紀末のヨーロッパの共産主義思想の中では全くの少数派だったのですが、1917年のロシア革命以後はこのレーニン思想が正統の地位を独占することとなり、マルクス主義はマルクス・レーニン主義と呼ばれるようになっていくのです。

このように、マルクス主義思想とは、ドイツ観念論たるヘーゲル哲学の方法論を批判的に発展させた方法論を使って、フランスの社会主義思想を批判的に引き継ぎ、イギリス古典派経済学を徹底批判することによって組み立てられた思想体系で、その目的とするところはルソー流の急進的民主主義思想の目指す全体主義体制構築そのものであったと考えられるということになります。
特にヘーゲル哲学から引き継いだ方法論としては、マルクス主義思想の核ともなっている弁証法や歴史法則主義があります。
しかし、まず弁証法は既にヘーゲル哲学のところで説明した通り、カルト宗教から生まれた詭弁のロジックであり、そして真理から最も遠ざかる思考停止のロジックでもあるのであって、全体主義思想への攻撃を無力化する盾として有効であったので、マルクス主義思想においては、出鱈目なマルクス主義体系を批判から守るためにのみ悪用されることとなりました。
つまり、マルクス主義の思想体系自体が弁証法に基づいて立てられているので、マルクス主義を批判する者は弁証法やプロレタリア的社会科学を理解できない無能者か、あるいは裏切り者として逆に非難されるという定式が出来上がり、弁証法の悪用によってマルクス主義は一切の批判を受け付けないドグマチズムに堕したのです。
また歴史法則主義については、マルクスは「社会科学が隠された未来を解き明かす」と大嘘をつきましたが、これもヘーゲル哲学のところで説明した通り、全く科学的根拠など存在しない謬説であり、グノーシス神話などを基にした「神のお告げ」的な妄想であり迷信に過ぎないのです。
歴史の法則の解明など不可能なのであって、「歴史は定められた運命であり動かすことは出来ない」などというニヒリズムは、倫理・道徳的な生き方を嘲笑し、未来のみを崇めて現在を揶揄し破壊する狂気をもたらす不道徳な考え方なのであり、自由社会を守るための不断の闘いを麻痺させる神託的哲学なのです。

これらマルクス主義思想の核をなす理論体系が出鱈目なものばかりであるのは当然で、マルクス主義という思想体系そのものがルソーの構想した全体主義体制を実現するための計画を正当化するための仕掛けに過ぎないものだからです。
そもそも全体主義思想の元祖はプラトンであり、ルソーもヘーゲルも共にプラトン思想からヒントを得て全体主義思想を作り上げましたが、これらのうちヘーゲルのほうがよりプラトンの思想により忠実であり、ルソーはむしろプラトンの思想を近代的にアレンジしました。
そういうわけですから、ヘーゲル派に属していながらヘーゲル哲学には飽き足らなく感じていたマルクスは、プラトン的な全体主義思想よりも、むしろルソー的な全体主義思想のほうに惹きつけられていくことになったのでした。マルクスがヘーゲル思想の弟子にあたり、ヘーゲルがルソー思想の弟子にあたる関係性を鑑みれば、マルクスはヘーゲルを超克してルソーに回帰したのだともいえます。
近代全体主義の元祖であるルソー思想はプラトンの全体主義思想から神秘主義思想の部分を取り除いて「イデア」の代わりに「社会契約」を据えてご神体とした無神論的カルト宗教となったのであり、それに対応して、マルクス主義はヘーゲル哲学から宗教性を排除したため、「民族精神の救済」を求める代わりに「文明への呪詛」を根底に据えた革命哲学となったのでした。
このためルソー・マルクス主義に基づく「社会契約」の全体主義国家は、無神論カルトの教祖たる独裁者とロボット化した信者によって構成された修道院的なカルト宗教団体を無限に地球規模に拡大して布教と改宗の強制をするべく、「共産主義の輸出」という侵略戦争を全地球に向けて実行することになるのです。
そしてマルクス主義体制においては、こういった侵略戦争によって世界を共産主義化していくことも含めて、全ては歴史の法則に則った予定された社会改造のコースなのだとされるのであって、その社会改造が予言された以外の方向へ向かうことが無いように、社会は厳格に統制されるべきであるというイデオロギーも生じるようになるのです。
つまり、社会を計画的に改造していくべきだという思想です。歴史がある特定の方向へ進化している以上、計画なくして進歩は無いというわけです。そしてもちろんのことですが、このような、迷信を狂信した知的傲慢に基づいてマルクス主義国家において立案された計画経済などの諸計画は、全て無惨な失敗に終わることになったのでした。
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