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日本史についての雑文その109 大衆民主主義
そもそもマルクス主義思想は世界の共産主義化を目的とした思想ということになっていますが、これはあくまで名目で、本音ではルソー的全体主義体制構築が真の目的であった疑いが濃厚なのですが、もし真の目的が額面通りに世界の共産主義化であったとしても、それはそれでやはり問題は大有りになります。
共産主義とはそもそも完全平等社会ということになります。完全平等社会とは機会の平等だけでなく、人格の平等化も目指す社会となります。しかし人間とはもともと不平等に生まれ不平等に育つものであり、他者との不平等なくして自己の存在は認識されませんから、完全平等化社会においては人格は虚無となってしまいます。

つまり平等というものは人間が人格を喪失した状態において体現されるものであるから、完全平等社会を目指す政策というものは人間の人格を抹殺する政策となり、人間を抽象的・無機質的な非人間化していくことになるのです。
そのような人間ばかりから構成される社会は光を失った暗闇の社会となりますから、完全平等社会化を求める要求とは、混沌的暗黒状態へ復帰せよという要求と同義ということになります。
そういった混沌的暗黒状態の体制下では人格の平等化、すなわち人間人格そのものの破壊が実行されることになります。共産主義者というものは、平等というドグマの名のもとに人間の殺害も含めた人格破壊をためらうことなく実行するという意味において、全員が間違いなく狂人であると断言していいでしょう。
つまり共産主義とは、神を否認し、人間を憎悪し、人間を否認して破壊しようとする、「平等」を狂信する血塗られたカルト宗教なのであり、神の存在しない、人間人格を喪失した非人間しか存在しないような「新しい社会」の実現という妄想を抱く教説なのです。

問題は、なぜマルクスは「平等」というドグマを掲げるだけで、このような妄想の社会を実現することが出来ると考えたのかということなのです。その解答は自由と平等の核心を衝く重要なテーマに繋がるのです。
それは、大衆というものが実は自由というものには関心が無く、自由というものを放縦と勘違いしてその本質を理解することも出来ず、大衆は自由を破壊する平等のほうを過剰なまでに追求するからなのです。
つまり、大衆は「平等」という幻想を提供されれば、必ずそれに惹きつけられて、明らかなカルトによっても扇動されてしまうということなのです。それをマルクスは知っていたからこそ、大衆を動員して共産主義革命が実行可能であると判断し得たのです。
いや、こういった大衆の、自由を理解できず自由を破壊する特性を理解し利用したのはマルクスら共産主義者達のみではなく、ヒットラーもそうであったしムッソリーニも同様でした。大衆が主体となった大衆民主主義においては自由は希求されることはなく、平等の過剰な追求によって自由は衰退していくのです。そうして大衆民主主義は全体主義へと転化していきます。大衆こそが全体主義体制を支える主体なのです。

何故、大衆が自由を破壊するのかというと、大衆が自由の本質を理解していないからです。自由というものは動物的劣情を正当化する放縦の論理なのではなく、自由の本質は「他人よりも優越する精神の高貴性を自らに要求する権利」であり、「人格の自由」こそがその本質なのです。平等というものはその人格を破壊するものですから、安易に完全な平等などというものを求めるという時点で、自由の本質というものを理解できていない証拠ということになります。
平等というものは「人間における社会的要素」ですが、自由とは「人間における霊的要素」なのであり、全く次元の違う存在なのであって、それらを比べたり競わせたりする時点でそもそも間違っているのです。言わば、平等は形而下、自由は形而上のものであり、マルクス流に言えば、平等は下部構造、自由は上部構造にある概念なのです。つまりこれも「下部構造が上部構造に優越する」というマルクス流に言えば、平等が自由に優越するということになるのでしょうけれど、実際はマルクスは間違っており、人間の本質により近いのは上部構造、すなわち霊的要素のほうですから、自由のほうが平等よりも優越するのが正しい在り方だといえるでしょう。

では何故、大衆は「平等」というドグマに惹きつけられ扇動されやすくなるのでしょうか。
まず、平等というものは全ての区別を拒絶するものですから、真偽の区別や善悪の区別も拒絶して、偽りと真実を等価に扱い、悪と善を相対的に扱い、真偽や善悪という概念自体を消滅させることを目標とするものです。
一方、大衆というものは、その本性において、いかなるモラルにも束縛されずに生きたいという願望を持っているので、真偽や善悪の区別というものが無いほうが望ましいと考える傾向があり、それゆえに「平等」というものがそうした真偽や善悪を消滅する作用によって大衆の隠されたる願望を叶えてくれることをもって、大衆は「平等」というドグマに惹きつけられやすくなるのです。
そして、この「平等」の実現を目標に掲げるイデオロギーが社会主義や共産主義であり、また、共産主義社会の実現を究極目標とするマルクス型全体主義であり、また、民族精神の救済思想と社会主義との結合たるヘーゲル型全体主義であるのです。それゆえに、大衆というものはその本性において、社会主義者や共産主義者、全体主義者のシンパとなりやすい傾向をもっているのです。
また大衆がそうした狂信者たちによって扇動されやすいのは、大衆がモラル意識を欠いているために感謝や恩義の意識が欠如しがちであり、今まで自分たちの人格の自由を保障して安楽な生存を可能にしてくれていた一切のものに対する恩義を忘れて、それらに対する徹底攻撃に参加することを恥じることがないからです。

そうして大衆の行動はエスカレートしていきます。その特質は、他人の思想に対して不寛容であること、賞賛や非難の際に途轍もなく誇大化すること、自己愛や集団意識に媚びる幻想に取り憑かれやすいこと、衝動的で興奮しやすいこと、推理力や判断力や批判精神を欠いていること、感情の極めて単純で誇張的であること、そして、それらの特質が公共生活の中に拡大し、膨れ上がってマス化し、残酷性を増していく傾向となって現れます。
こうした大衆というものの姿は、まるで文明以前の原始人や小児のようであり、それゆえに全体主義体制というものは文明以前の暗黒の原始時代に一直線に先祖返りしてしまったのです。
何故、大衆の行動が原始人のようになってしまうのかというと、大衆の嫌うモラルというものは過去の堆積の上に積み上げられた歴史感覚に基づいたものであるから、大衆は歴史感覚を嫌い、過去との連続を絶って新たにことを始めようと願い、それは歴史の堆積を全否定して原始時代のレベルにまで落ちぶれて、原始人や小児の真似をしようということと同義であるからです。
そして、そうした過去否定願望は、大衆と全体主義体制の独裁者に共通した嗜好でもあるのです。いや、独裁者自身が大衆人の一人なのだといえるでしょう。

ならば、全体主義体制を拒否するためには、国民が健全な歴史感覚、つまり「過去が過ぎ去ったというばかりでなくそれが現存するものだという感覚」を持つことによって、「大衆」のレベルにまで堕落することを防ぎ、「真の人間」となることが大事だといえます。
健全な歴史感覚を持った「真の人間」とは、自分の過去の中を自在に動き回り、過去のあらゆる時代を完全に我が物とし、それを積極的な働きをするための財産として保持している人間であり、すなわち、未来のために生きながらも、引き続き過去を生き得ることこそが、真の現在を生き得ることであるという極意を会得した人間なのです。
ただ、このような「真の人間」というものはどうしても社会においては少数派となるものであり、ならば最低限守らなければならない一線は、過去を喪失し人格を喪失した大多数の「大衆人」を決して社会の支配者にしてはいけないということになります。社会の堕落を防ぎ野蛮の芽を摘み取るためには、社会の支配者は、過去にも生き過去を紡いで未来への生命源を保守する、優れた少数派の「真の人間」でなければならないのです。

こうした「優れた少数派」「真の人間」という存在は、階級や身分ではなく人間の質で他と区別される「真のエリート」と言うべき存在であり、「真のエリート」は自分に多くのことを課して困難や義務を進んで負う人々ということになります。
それに対して「大衆人」は、生きるということのみに満足し陶酔し、自己完成の努力をせずに流されて暮らす人々ということになります。いや、成熟した社会というものはこういった大衆人が多数派となるものであるし、こういった大衆人の生き方そのものが決して何らかの罪悪だというわけではないのです。
ただ問題であるのは、民主主義というものが多数者の専制体制であるという意味において、大衆という階層の存在している社会に民主主義思想が浸透した場合、単に多数派であるという理由だけで、この「大衆人」が「真のエリート」を押しのけて社会の支配者となるということなのです。
これは議会制度が普及しているとかしていないとか、そういうことは関係なく、社会や経済の一定の安定によって民衆が安逸を得る環境が揃っている場合には大衆というものが発生し、そこに民主主義の思想、つまり共産主義や全体主義も含まれるわけですが、そういう原理が入ってきた場合、あるいは権力によって上からそういう原理が強制された場合に、大衆民主主義というものが発生し、「大衆人」が社会の支配者になるという現象が起きるということです。
「大衆人」が社会の支配者となった大衆民主主義の場合、社会は堕落し野蛮化します。しかしそれ以上に困ったことは、「大衆人」が「真のエリート」の保持する規範意識を嫌うために、「真のエリート」との共存を望まず、「真のエリート」を徹底的に憎み、排除し、絶滅しようとする傾向を強く持つことなのです。
「真のエリート」とは健全な歴史感覚を持った人間ですから、そういった歴史感覚を保持し継承する社会の中間組織、特にその中でも世襲的家族制度や伝統的階級を源泉として輩出されてくるものとなります。
それゆえ、大衆民主主義が社会の支配原理となり、「真のエリート」の絶滅を図る場合には、真っ先にこの世襲的家族制度と伝統的階級の破壊が企てられることになるのです。これらが一旦破壊されてしまった場合は再建は容易ではないのですが、それでも健全な社会の再生を図るというのであれば、まず真っ先にこれらの再建を図らなければならないのです。

日本に最初にマルクス主義思想が輸入されたのは、1904年の幸徳秋水による「共産党宣言」の翻訳出版であり、その後、ロシア革命後の1920年代にはマルクス主義や共産主義思想、社会主義思想が広まることとなりました。
これは、もともと幕末から明治維新以降、ルソーやミル、ヘーゲルの思想を有難がって受け入れていた影響で、これらの教説を基にして組み立てられたマルクス主義思想や共産主義思想、社会主義思想に対する抵抗力、免疫力が低下していたためであり、特にヘーゲル哲学の弁証法の悪影響も大きいといえるでしょう。
ただ、そういった外来の要因だけではなく、もともと江戸時代後期以降、日本において「生きるということのみに満足し陶酔し、自己完成の努力をせずに流されて暮らす人々」の群れである大衆社会的状況が既に発生しており、そこに近代西洋の民主主義思想が入ってきたことによって、明治維新以降、徐々に大衆民主主義への移行が開始され、20世紀に入って日露戦争以後、対外的危機が遠のいたことによって社会が安定し、大衆人が社会の多数派となり、民主主義的な政治制度も整備されたことによって日本は大衆民主主義の段階に到達していたため、そこに入ってきたマルクス主義などを受け入れやすい状況となっていたということも大きな要因といえます。
そうした日本における大衆民主主義は、日本社会から歴史感覚を麻痺させ、社会を堕落させ野蛮化していき、「真のエリート」の源泉である世襲的家族制度と伝統的階級の破壊にいそしんできました。それらの破壊行為は明治維新に起源を持ち、大正デモクラシー以降に顕著になりましたが、特に第二次大戦後に加速度的に大規模化し、今やその弊害は許容量をとうに超えている感があります。
こうした状況を改善するためには、「真のエリート」の源泉の復活が必須となりますが、そのためにはまずは「未来のために生きながらも、引き続き過去を生き得ることこそが、真の現在を生き得ることである」という真っ当な歴史感覚の復活が必要であろうということで、そういうわけで私も拙文におきましてそういう意識で雑文を書き連ねている所存でございます。
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