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日本史についての雑文その111 19世紀のロシア
最後に非ヨーロッパ圏の巨大なユーラシア大陸国家として、ロシア帝国のナポレオン戦争後の模様を見ていきます。
ロシアは、もともとモンゴル帝国の一部であったキプチャク汗国の最後のハーンからイヴァン3世がハーンの位を譲り受けたことによって出来た国家で、そもそも他のヨーロッパ諸国とは異質な、むしろシナやトルコなどに性格の似通ったアジア的帝国なのです。

ちなみにロシア皇帝の称号「ツァーリ」というのは、モンゴル語の「ハーン」のロシア語訳なのです。ローマ皇帝やオーストリア皇帝などとは、そもそも語意自体が違うと考えたほうがいいでしょう。ロシア皇帝はアジア的専制君主なのです。アジア的専制体制とは何かというと、国民の大部分は奴隷ということです。
ですから国教であるロシア正教も、キリスト教ではあるのですが、これもヨーロッパにおけるカトリックやプロテスタントとは異質なもので、ロシア化された特殊なキリスト教なのであって、専制君主である皇帝権力と密接に結びついて強固な権力を持っていました。
そういうわけですので、ロシアにおいては啓蒙主義思想が王権神授説を超えることはなく、皇帝絶対専制体制がひたすら続いたのです。
そんな状態のところにナポレオン戦争が起き、ロシアはナポレオン軍の侵略を受けましたが、これを撃退し、逆に撤退するナポレオン軍を追いかけてロシア軍がヨーロッパへ侵攻していきました。その行軍に従軍した若い貴族たちがヨーロッパにおける民主主義の進展を見て、ロシアに帰還した後、民主主義的な改革を求める秘密結社を作ることとなりましたが、1825年にデカブリストの反乱を起こし、これに失敗し、これによりロシアの民主化は頓挫し、皇帝権力は逆に強化されることとなりました。

そういう国内の不満から目を逸らすためという事情もあり、ナポレオン戦争後のロシアは南下政策という名の膨張政策をとるようになり、イギリスと各所で争うようになりました。そうした角逐の一環として、幕末期の日本とも1854年には国交を結びました。
幕末当時の日本から見たロシアという国は、他の欧米諸国とは違い、18世紀後半から付き合いのあるアジアの隣国という意識があったようで、あまり警戒感は無く、むしろ他の外国に比べて友好的に捉えていたようです。しかし、いかんせんロシアは近代化が遅れていたので、明治維新後の日本においてはあまり重要視されず、疎遠となりました。
さて、ロシアの南下政策は1853年から1856年にかけて戦われたクリミア戦争によって一時的に頓挫することになります。このクリミア戦争は初めての世界大戦といってもいい大戦争で、1848年のウィーン三月革命でウィーン体制が崩壊した後、東欧のトルコ支配下のドナウ河地域のスラブ系の諸民族の民族主義、つまり汎スラブ主義が高まり、トルコからの独立を目指し運動を展開し、これをロシアが支援し、そのためにトルコとロシアの緊張が高まり戦争に突入し、それにイギリスとフランスが介入して泥沼化し、スウェーデンやサルジニアまで参戦し、戦闘地域はバルカン半島、黒海、バルト海、極東にまで及びました。
クリミア戦争は各国に非常に多くの戦死者やそれを上回る戦病死者を出し、勝者なき戦争と言われましたが、結果的にロシアの黒海方面への進出はイギリスやフランスによって阻まれた形となったのです。

この戦争において大軍を派遣したロシア軍がイギリス軍に勝てなかったのは銃器の性能差によるものも大きかったのです。ロシア兵が使ったのはゲベール銃で、これは銃身の中がラセン状になっておらず、しかも銃弾が丸いので、丸い弾丸が無回転で発射されるため、ナックルボールのように弾丸が不規則運動して標的に上手く当たらないのです。
一方、イギリス兵の使ったのはミニエー小銃で、これは現在と同じような長円筒型の弾丸が銃身の中に切られたラセンによって回転を与えられて発射されるので、ジャイロ効果で弾道が一定し命中率が飛躍的に上昇するのです。
つまり、強力で狙撃可能な革命的な小銃、ライフル銃が登場したのです。このライフル銃を駆使したイギリス軍がロシア兵を狙い撃ちにして撃破したのです。これ以降、戦場で歩兵隊は常に狙撃を回避する迅速な部隊行動をとるようになり、真の機動戦の時代が到来することとなったのです。また、要塞や塹壕もこの戦争から出現するようになりました。

また、このクリミア戦争は他にも後世に様々な影響を与えています。
クリミア戦争はそれまでにない強力な兵器を使った大規模な戦争となりましたので、非常に多くの戦死者だけではなく、また伝染病対策や捕虜取り扱い態勢の不備もあり、むしろ戦傷死者や戦病死者のほうが多く、従軍看護婦フローレンス・ナイチンゲールの美談が生まれたのもこの戦争でした。
それゆえ、クリミア戦争後、アンリ・デュナンの提唱によって国際赤十字が設立されることとなり、その1864年のジュネーヴでの設立総会時に、「傷病者の状態改善に関する第一回赤十字条約」が締結されました。これが戦争時の捕虜の取り扱いに関するジュネーヴ条約の最初です。
またクリミア戦争があまりに悲惨であったので、戦争の悲惨があまりにも行き過ぎないように歯止めをかけようという気運が生じ、戦争のルールを定めて、平和が完全に破壊されないようにするため、1899年にはオランダで開かれたハーグ平和会議で、ハーグ陸戦条約が採択されました。
このハーグ陸戦条約では、交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されましたが、これらの戦時国際法は、第一次大戦後は結局、踏みにじられることとなっていきます。

他に、このクリミア戦争に関連しては、余談になりますが、スウェーデンの発明家であり実業家でもあったアルフレッド・ノーベルが最初に手がけた事業がクリミア戦争時のロシア軍依頼の機雷の製造と設置でした。
この後ノーベルは爆薬と起爆装置の研究開発に邁進し、1866年にダイナマイトを発明し巨万の富を築きます。そして1896年に死去した際、自分の遺産を使って科学に貢献した人に賞金を与えるように言い残しました。これがノーベル賞の始まりです。
ノーベルは武器商人であり、世界平和を唱えながら武器製造を行い、それによって得た利益を使って平和活動を行いました。ノーベルの思想は、戦争そのものを無くすことは不可能であり、双方が過剰な武器を持つことで軍事バランスをとり、平和を保つという均衡論でした。
ノーベルがダイナマイトを発明した動機は、「もし全てを破壊する爆薬があれば、どの国も戦争をしなくなるだろう」というものだったと言われています。ノーベルは決して感傷的な平和主義者ではなく、透徹したリアリストだったといえるでしょう。但し、その見通しが正しいかどうかは、今後の世界を見てみないと判断は出来ませんが。

さて、このクリミア戦争によって近代化の必要性を痛感したロシアは農奴を解放して小作農とし、近代的土地制度を導入しました。また産業革命を推進しました。
こうして、昨日まで古代さながらの奴隷制社会だった未成熟なロシア社会に急激に小作農や労働者が増えたために、19世紀後半のロシア社会では小作争議や労働争議が頻発するようになり、しかもそれを皇帝権力が無闇に弾圧したためにこういった民衆の不満は皇帝権力への抵抗運動となっていきました。そしてそこに社会主義思想や共産主義思想を奉ずる知識人による扇動が入り込んでいったのです。
民衆の動きに対してあまりにも強権的に対応する専制皇帝権力というものの存在と、封建制度すら経験していない古代奴隷制に毛の生えた程度の未成熟な社会という、この極端な対比構造が、社会主義運動や共産主義運動を他のヨーロッパ諸国では類を見ないほどに過激化させた大きな要因なのではないかと思われます。

こうした抵抗運動の目を逸らすためにまたもやロシアは膨張政策をとるようになり、1877年のロシア・トルコ戦争に勝利してバルカン半島のスラブ系諸民族の諸国を独立させて影響下に置くことになりました。
ちなみに、この際、ボスニアのみがオーストリアに併合され独立できなかったため、過激な独立運動が展開されることとなり、それをロシアが支援し、ボスニア住人のオーストリア国家に対する怨嗟は高まっていきました。それが第一次世界大戦の発生へと繋がっていくのです。
ロシアはこうして19世紀末にはバルカン半島でオーストリアと対立することとなり、オーストリアと同盟するドイツに対する包囲網を作るようになったイギリスとフランスと連携するようになり、三国協商を形成することになるのです。
また極東方面でも、既に1856年から清国と英仏との間で戦われていたアロー号戦争に介入し、1860年には清国の沿海州まで領有するようになっていたのですが、更に南下政策を強め、1890年代には韓国の内政に介入したり、1900年の北清事変以降は満州を支配下に置くようになり、極東で日本との緊張を高めることとなるのです。
そして1900年に過激なロシア人マルクス主義活動家であったウラジーミル・ウリヤノフがドイツに亡命し、翌1901年には初めて「レーニン」というペンネームを使用し、共産主義革命を扇動する文書を次々刊行していくこととなるのです。このレーニンが1917年のロシア革命を主導することになり、世界最初のマルクス・レーニン主義国家であるソヴィエト社会主義共和国連邦を建国することになるのです。つまり、悪夢のような収容所国家がこの世に出現することになるのです。

こうして見ると、ロシア帝国もまた、アメリカとは違った意味で、ナポレオン戦争後における社会思想の潮流の変化の直接的影響を同時代的にはほとんど受けず、19世紀においては全体主義体制へと至る具体的手法というものを持たない社会であり続けたのだといえます。
ロシアの場合はアメリカとは逆に、あまりにも強大な専制皇帝権力によって民主主義の発展自体が押さえつけられていたことによって、その民主主義の発展型である全体主義へと至る道自体が開かれていない状態だったといえます。
しかし皇帝の絶対権力とロシア正教が完全に一体化していたために一種の王権神授説による絶対王政国家となっており、すなわち「法による支配」が確立されておらず、真っ当な保守主義思想も成立していませんでした。
そういう意味で後に民主主義思想がいざ流入してきた場合は無防備な状態であり、しかも皇帝権力の圧制への対抗手段としてテロが正当化されやすい状況であったので、民主主義がテロルを経て民衆をアトム化して全体主義へと移行しやすい条件が揃っていたといえます。
実際、19世紀末以降、社会主義や共産主義の活動家たちは、ロシアにおいてはテロを多用してロシア社会を破壊していき、それによって20世紀に入ってから全体主義体制構築に成功するのです。いや、そもそもそうやって出来上がった国家は元来唱えられていた社会主義国家や共産主義国家とは異質なものであり、単に社会主義や共産主義というイデオロギーは、ロシアにおいては民主主義が全体主義体制を築き上げるための手段としてのテロを正当化するための単なる便利な道具として使われただけなのではないかとも考えられるのです。

こうしたアメリカとロシアという非ヨーロッパ圏の2つの大国が、20世紀に入るとヨーロッパに代わってスーパーパワーとして台頭してくるようになります。そして、同じく20世紀に台頭してくることになる非ヨーロッパのパワーである日本にとっても、この19世紀後半という時期はそのための準備期間、助走期間として貴重な時期となります。
このあたりで、長らく脱線してしまいましたが、その19世紀後半期にさしかかる更に少し前、1830年代末の幕藩国家爛熟期後期も終わり頃の日本についての記述に戻りたいと思います。
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