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日本史についての雑文その113 蛮社の獄
1837年6月にアメリカの商船モリソン号が浦賀沖に停泊し、幕府に対して通商を求めようとしましたが、異国船無二念打払令によって砲撃され、砲弾を一発被弾して退去しました。大塩平八郎の乱の4ヶ月後のことでした。
このモリソン号の派遣は、対清国貿易に力を入れたいアメリカが清国へと繋がる太平洋航路の寄港地として日本を有望視して、外国船に対して警戒心が強いという日本の状況を考慮して、出来るだけ日本側を刺激しないようにという配慮で非武装の民間の商船を派遣し、日本人漂流民も同行させたものなのですが、日本側にはそうした気遣いはあまり伝わらなかったようです。

とにかく異国船打払令自体、1825年に発令されてから、まともに実地で使われたことも無かったわけで、実際に異国船を砲撃したらどうなるのか、幕府当局者にも想像もつかなかったのでしょうし、幕府当局者以外は、そういう法令があること自体忘れていたと思われます。
運よくアメリカがこの時点ではそれほど日本の開国に執着が無かったのと、翌1838年に清国で林則徐がアヘン禁輸の欽差大臣に就任しアヘン密輸の取り締まりを強化したためアヘン戦争へ突入していくことになり、そもそもアメリカにとっても清国における貿易の存立自体がしばらく怪しくなったため、日本の無礼に構っている余裕が無くなったという事情もあり、アメリカはこのモリソン号事件に対する報復措置などは講じませんでした。

しかし、日本国内にはそういう事情も伝わってこないわけですから、非武装の外国商船にいきなり幕府が大砲を撃ちかけたと聞いて仰天し、それを危惧するグループが出てきました。
それは尚歯会という蘭学者グループで、三河田原藩の家老であった渡辺崋山、シーボルトの鳴滝塾出身の蘭方医であった高野長英や小関三英らを中心とした儒者や文人などの西洋事情に関心を寄せていた集まりで、これには幕臣の川路聖謨や江川英龍らも加わっていました。
もともとは天保大飢饉の際の対策を講ずるための学問サークルがその始まりでしたが、やがて自然科学分野だけでなく政治や国防問題についても話し合う一種のシンクタンクのような機能を果たすようになり、1834年に老中に就任した水野忠邦もこの会に注目し、西洋諸国への対策に関してその意見を参考にしようともしていました。
こうした傾向に危機感を募らせていたのが幕臣保守派の中心人物で目付職にあった鳥居耀蔵でした。鳥居は朱子学の宗家である林家の出身でコチコチの体制派で攘夷派でしたから、蘭学者が政治に口出しすることを嫌い、異国船打払令を教条的に支持していましたが、海防現場での大砲の技術の立ち遅れなどには無頓着でした。
一方、太平洋に面した三河田原藩において海防の現場を担当する渡辺崋山は大砲技術の旧態依然ぶりを憂えて、尚歯会のネットワークを使い、長崎で洋式砲術を学んだ高島秋帆と知り合い、自分と同じく海防の現場責任者でもある伊豆国の韮山代官であった江川英龍に秋帆を紹介し、なんとか洋式砲術を海防現場に活かそうとしていました。
こうした尚歯会の方針は、軽薄な西洋かぶれでもなければ、性急な開国論でもなく、ましてや反体制的な倒幕運動などではありません。むしろ海防態勢の強化によって幕臣保守派の望む鎖国体制堅持の助けにもなるものであり、保守派である鳥居が本来嫌う必要などないものだったはずです。
しかし、江戸湾の測量方法についての幕閣の話し合いの際にその方針の違いから鳥居は江川と対立し、崋山の尚歯会ネットワークのバックアップを受けた江川の知識の前に完敗し、恥をかかされた恨みを抱くようになったのです。もともと教条的な体制派であった鳥居は、幕臣でもない者や蘭学者が幕政に意見をすることすら嫌っていたので、そうした門外漢のネットワークに自分のような正当な幕臣が敗れたことが許せなかったのでしょう。

そういう時に1837年にモリソン号事件が起こり、尚歯会では幕府の強硬な対応に危惧の念を抱くことになったのでした。彼らはモリソン号事件のことを聞き及び、その船名から判断してイギリスの要人が乗船していたイギリス船だったのではないかという事実誤認をしていましたから、余計にその与える悪影響を憂慮したのです。イギリスといえば、当時の蘭学者グループにとって思い起こされるのは1808年のフェートン号の乱暴狼藉でしたから、そういう獰猛な国を怒らせて大丈夫なのかということです。
実際にはモリソン号はアメリカの商船であり要人などは乗っていなかったのですが、高野長英は「戊戌夢物語」を書いて、その中で、同胞である漂流民を追い返したり非武装の船に大砲を撃ちかけたりするような打払令によって日本が「不仁の国」と見なされることを危惧し、穏便に説明して外交関係を拒否することを提言しました。
これは幕府の外交方針を批判しているわけですから、一般向けには出版できるようなものではありませんでした。ですから長英は尚歯会の仲間うちで回覧に供するためにこれを書きました。仲間うちには幕臣の川路や江川もいるわけですから、政策に反映させるにはそれで十分だったのです。
ただ、別に極秘に回覧していたというわけでもありませんでしたから、この内容は鳥居ら幕臣保守派も知るようになりました。どうせ政策提言を行わねばならないわけですから極秘にしていても仕方ないのです。むしろ尚歯会サイドとしては、「不仁」という論点で保守派を攻撃することで論争を有利に展開できるので論争は望むところであったでしょう。
「不仁」とは要するに慈愛の心が無いというようなことであり、朱子学的には為政の道として正しくないことです。ですから、朱子学を信奉している幕臣保守派にとっては、なかなか痛いところを突かれているわけです。そういうわけで鳥居らもなかなか長英を糾弾することが出来なかったのです。

そうしているうちに1838年になり、水戸藩主の徳川斉昭が新将軍の徳川家慶に大塩の乱やモリソン号事件を受けて内憂外患を説き、国事多難な折り、国内の引き締めを図るよう説きました。これを受けて鳥居らも幕府の威信回復のためにも尚歯会のような部外者に大きな顔をさせて政策提言を自由にさせることなど許すわけにはいかないと思い、強硬措置をとることにしました。
そこで1839年、鳥居らは長英ら一部の尚歯会員が海外渡航を企てているという冤罪をでっちあげたのです。海外渡航は重罪でしたから長英は捕縛され永牢、つまり終身禁固に処され、小関三英は捕縛前に自害し、崋山の屋敷も家宅捜索を受け、その際に「慎機論」の草稿が発見されてしまいました。
「慎機論」とは、モリソン号事件を受けて崋山が著述した文書で、19世紀イギリスの国情を記して、その造船や大砲などの進んだ科学技術を紹介し、幕府の旧態依然とした国防方針を批判する内容となっていました。
ただ、崋山は町医者の長英とは違い田原藩家老という立場があったので、この「慎機論」の発表や回覧には慎重で、とりあえずは自宅に草稿だけ置いていた状態だったわけですが、それが家宅捜索によって幕吏に発見されてしまい、幕臣でない者が幕政を批判したことを咎められ、国元で蟄居を命じられることとなりました。
鳥居ら幕臣保守派の真の狙いは、江川英龍の失脚であったのですが、これは江川を高く評価していた老中の水野忠邦によって阻止され、江川は崋山らの志を継いで幕府の国防政策をこの後も支えていくことになるのです。

これが「蛮社の獄」といわれる事件であり、これによって尚歯会は壊滅したのでした。「蛮社」とはつまり、野蛮人の学問である蘭学を学ぶ結社という意味でした。ただ、この事件は蘭学全般に対する思想弾圧事件というわけではなく、むしろ政策の違いに起因した権力闘争がその本質であり、尚歯会という蘭学者を中心とした政策集団がそのとばっちりを受けたというのが真相です。ですから、この後も蘭学は一般に普及し続け、それは開国後は洋学に姿を変えて時代を動かしていくことになるのです。
渡辺崋山は主君に累が及ぶことを避けるため、1841年に切腹して果て、高野長英は1844年に脱獄し、その後は諸国を転々として逃亡生活を送りながらオランダ書物の翻訳を数多くこなしました。特に「三兵答古知幾」というプロイセンの最新軍事戦術書の蘭訳本を和訳した書物は、幕末の日本の軍制改革に重大な影響を与えました。しかし長英は1850年に江戸で幕府の捕方に囲まれ自害して、その成果を見届けることは出来ませんでした。
しかし崋山や長英らの志は同志の江川英龍によって受け継がれ、それが更にその弟子の佐久間象山、そして更に吉田松陰や橋本左内、桂小五郎、勝海舟、坂本竜馬、河合継之助らに繋がっていくことになるのです。
しかし、冤罪であるとはいえ、何故これほどの大事件に連座しながら江川は無事であり、この後も活躍を続けることが出来たのかというと、それは翌1840年に幕府にアヘン戦争の情報が伝えられ、日本を取り巻く情勢が、おおむね崋山や長英の分析していた通りであったことが判明し、そうして立ち現れてきた「真の外患」に対応していくためには、崋山や長英の知識や志を継ぐ幕臣であった江川の力がどうしても必要であったからでした。
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