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日本史についての雑文その114 洋式軍備
1839年11月に勃発したアヘン戦争について最初に幕府が情報を入手したのは1840年6月に長崎に入港したオランダ船からでした。ここにおいて幕府はアヘン戦争の開戦の経緯や緒戦におけるイギリス軍艦の圧倒的勝利を知ることとなりました。
そして戦闘の詳細についての情報は同年12月に長崎に入港したシナ商船からもたらされました。6月の第一報だけでも水野忠邦をはじめとする幕府首脳は大きな衝撃を受けていたのですが、この第二報は決定的な衝撃を与えました。シナ大陸西南海岸の諸都市をイギリス東洋艦隊が各個撃破していき、シナ守備隊が壊滅していく様子が詳細に伝えられたのです。

江戸時代を通して日本は文化的経済的にシナ大陸からは完全に自立し、むしろ清朝を蛮族の王朝として見下げる風潮すらありましたが、そうはいってもやはり清国は大国であり、軍事的には強力であると見ていました。だから西洋諸国も清国にはなかなか手は出せないであろうと予想し、むしろ先に日本が襲われるのではないかと警戒していたぐらいでした。
ところがその清国がなんとも呆気なくイギリスに敗れようとしているのです。戦争の推移の予測はこの時点ではまだ断定が出来ない状態ではありましたが、とにかくイギリスの軍事力が途轍もなく強大であるということはハッキリしたわけです。

特に幕府首脳に衝撃を与えたのがイギリス艦隊の発射した洋式大砲の威力でした。それは清国守備隊や日本沿岸防備隊の持っていた旧式大砲とは全く次元の違う兵器でした。そこで至急に洋式大砲や洋式砲術について詳しく知っている人間が必要になったのです。
アヘン戦争が勃発したことを知った時点で、長崎の砲術家の高島秋帆は幕府に意見書を提出して洋式砲術の必要性を説いていたので、老中の水野忠邦は1840年の末には江川英龍を長崎の秋帆のもとに派遣し、秋帆を幕臣に取り立てました。そして長崎で江川は秋帆に弟子入りして西洋砲術を学ぶことにしたのです。
そして江川が幕府と秋帆を説いて、1841年5月には武蔵国の徳丸ヶ原で秋帆の指揮のもと、日本初の洋式砲術による公開演習の実施にこぎつけました。ここに幕府の洋式軍備が起こったのです。ちなみにこの徳丸ヶ原は後に、秋帆の姓をとって高島平と呼ばれるようになりました。
この演習の成功を受けて、水野忠邦は正式に幕命によって江川に秋帆への弟子入りを命じ、これ以後、江川は高島流砲術を受け継ぎ、更にそれを改良した西洋砲術を幕臣のみならず全国の藩士たちに教育し、普及に努めることになりました。

よく明治以後の歴史教育では幕府は長い鎖国時代の平和ボケで無為無策であったかのような記述が多いのですが、このあたりの幕府の対応を見ていると、確かにすぐさま開国路線に向かうというわけではないのですが、なかなか迅速かつ的確で、とても平和ボケとも思えません。
そもそも幕末の志士たちの多くは、このアヘン戦争を受けて水野忠邦や江川英龍が切り開いた開明路線の恩恵を受けているわけなのですから、そういう点はもう少し評価されて然るべきであろうと思います。
とにかくこの一連の開明路線には、迅速さだけでなく、旧弊を打ち破る斬新さがあります。まず高島秋帆は有名な砲術家ではありましたが、もともとは長崎の町人身分出身の蘭書収集家に過ぎなかったわけで、それを幕臣に取り立てて重用するというのは、松平定信以来の家格重視のコチコチの保守派の発想では不可能なことでした。
また、西洋砲術の技術を幕府で独占するのではなく、他藩の藩士にも教えるという方針は、全国の海岸線を守るのが幕府の天領ばかりでないのだから当然といえば当然なのですが、これも幕府第一の保守的思考の支配下ではなかなか実現しない方針であったといえるでしょう。
かといって幕臣保守派が一掃されたのかというと、そういうわけではなく、この後もその弊害は大きくなっていくのですが、では何故、このアヘン戦争への対応は迅速かつ斬新であったのかというと、これは老中の水野忠邦のパーソナリティに起因するものでしょう。迅速かつ斬新というのがそもそも忠邦の特性なのだといえるのです。

このアヘン戦争の決定的な第二報がもたらされた1ヵ月後、1841年1月には幕政を長年牛耳ってきた大御所の徳川家斉が死去し、大御所時代が終焉し、筆頭老中の水野忠邦による天保の改革がスタートします。この内容については後で詳しく見ますが、一言で言えば、松平定信をも遥かに超えるウルトラ反動政策のオンパレードです。
かといって忠邦が保守派なのかというとそういうわけでもなく、むしろその反動ぶりがあまりに凄まじく、ある意味、斬新ですらあり、一般庶民だけでなく既得権保持層の保守派の反発をも買っているからです。
こういった政治をやりながら、洋式軍備の普及などの開明的政策も進めているわけですから、忠邦という人は、単純に保守派とか開明派というふうに色分け出来るような人物ではなく、幕政改革に全てを賭けた政治家であり、幕政の建て直しに必要と判断したことは保守的なものも開明的なものも関係なく果断に実施していったのだと思われます。
そういう忠邦のパーソナリティが反映されて、こうしたアヘン戦争への迅速かつ斬新な対応が可能になったのではないでしょうか。

アヘン戦争についてはその後も続報が何度かもたらされましたが、1842年6月にはオランダ商館長から「日本へもイギリス海軍が襲来する可能性あり」という重大情報がもたらされました。
これは結果的には誤報だったのですが、そんなことは分からない幕府首脳にとっては緊急事態として認識されました。かといって、こんな情報を天下に公表して「実は異国船を打払う自信がありません」と打ち明けるわけにもいきません。そんなことをすれば幕府の威信低下は逃れられないからです。
といって、イギリス海軍がやって来て武力衝突が起きてしまえば、現時点で日本側には到底勝ち目は無いのですから、まずはそれを回避して、時間を稼いでいるうちに日本側の防備態勢を充実して、なんとかイギリス艦隊を追い返すことが出来るようになっておくしかないのです。
そこで水野忠邦は、この重大情報を他に漏らさず、幕府の評議にもかけることなく、1ヶ月後の1842年7月には全く独断で海防政策を大転換し、異国船無二念打払令を撤回し、薪水給与令を発令したのです。これも異例中の異例のやり方といっていいでしょう。
これは、もちろん忠邦の独断専行型のキャラクターによるものでもあるのですが、この決定の異常な迅速さを考えれば、それ以上にこの時の切迫感が尋常のものではなかったということでしょう。
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