KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その115 海防政策の転換
こうして、異国船無二念打払令は、実質的にはモリソン号に対して1回発動されたのみでその役割を終え、結局は高野長英が提言したように、1842年に異国船には穏便に話し合いで退去してもらうという方針に転換されたのでした。
ここで間違えてはいけないのは、幕府はここで開国論に傾いているわけではないということです。あくまで鎖国政策は堅持することが目的であることが前提で、その目的達成のためには強硬策よりは柔軟な対応で時間を稼いで防備態勢を整備するほうが正しいと判断したというだけのことなのです。

実際、1842年にアヘン戦争で清国が敗れて南京条約を結び、とうとう清国にも欧米諸国の商人が本格的に参入してくるようになって世界が完全に一つの市場に一体化され、日本近海も外国商船の定期航路となるに及んで、開国は不可避な状況になるのですが、それでも幕府は頑なに外国に門戸を開くことに抵抗感を持ち続けました。

現代から見れば頑迷に見えるでありましょうが、これはよくよく考えれば当然の反応だと言っていいでしょう。アヘン戦争の開戦の経緯を幕府は知っているわけであり、この開戦の経緯を見る限り、どう見てもイギリスは無法者であり、全く正義など無いことは明白です。そのような国と進んで付き合おうと思う為政者など存在しないでしょう。
むしろ、このアヘン戦争におけるイギリスの振る舞いは、攘夷論者の唱える「西洋人は禽獣の類」という差別的排外思想に正当性を与えてしまったのであり、この後、攘夷論はむしろ過激化していくことになり、また庶民の一定の支持も得て広がっていくことになるのです。特に幕臣保守派や憂国的な知識人などはこのアヘン戦争によって対外警戒感を極端に高めて、それは洋式軍備の一定の整備を進める効果は生んだのですが、それ以上に外国への嫌悪感はむしろ高まってしまい、そうした中で開国論などなかなか唱えられるものではありません。
逆に、幕臣保守派による開明派への「禽獣の術を広めるけしからん連中」という攻撃は激しさを増し、1842年には鳥居耀蔵の讒訴によって高島秋帆が投獄されてしまうことになりました。秋帆は1853年のペリー来航の年まで出獄が許されず、その間は江川英龍が奮闘して洋式軍備を広めることとなります。
そしてなんといっても幕府が開国論を拒絶した理由としては、アヘン戦争の後に結ばれた南京条約の清国側に圧倒的に不利な不平等性が問題でした。西洋諸国というものが軍事的に劣った相手に対してどのような仕打ちをするものであるのか、これで明らかになったわけです。
実際は清国は南京条約だけでは植民地化はされずに、それゆえに1856年には引き続きアロー号戦争が起きることになり、その後は実質的に植民地化されるのですが、当時の幕府首脳が南京条約のような不平等条約を結ばされることによって植民地化されるのではないかという危惧を抱いたのも当たり前の反応でもあったでしょう。
もし当時の脆弱な防備態勢のまま開国していれば、日本も南京条約のような不平等条約を結ばされたことでしょう。そしてそれを植民地化の第一歩として警戒した幕府首脳の判断は正当なものでした。だから、性急な開国や強硬対応による戦争勃発は避け、外国からの通商要求はのらりくらりとかわしつつ、その間に外国軍を迎え撃てる態勢を整えようという方針を選択したのです。

結果的には、この方針は失敗に終わります。結局は1853年にペリー艦隊の来航を受け、押し切られて翌年には開国させられ、1858年には南京条約と同じ程度の不平等条約である日米修好通商条約が締結されることになるからです。10年以上もの間稼いだ時間は無駄であったかのように見えます。
何故この方針がうまくいかなかったのかというと、まず日本側が鎖国状態という制約の中で軍備を整備している間に、西洋諸国はその数倍の速度で新しい兵器を開発し最新の軍備を整えるので、到底追いつくことは出来ず、むしろ時間を稼げば稼ぐほど西洋諸国のほうに有利に働いたということがあります。
より具体的な問題点としては、アヘン戦争でのイギリスの艦隊の機動的運用による清国沿岸諸都市への各個撃破戦略を教訓とするならば、固定砲台などいくら充実させてもその効果は限度があるということです。やはり外国艦隊に対抗するためには日本側も艦隊を整備しなければいけないのです。しかし外洋航海可能な艦隊を造る技術は日本にはありませんでしたので、これは開国しなければ手に入りません。あるいはそれが可能であったとしても、外洋航海可能な船を持つということは、狭い島国の日本にとってはそれはつまり、鎖国政策の放棄と同義ということなのでした。そこまで踏み込むことのない10年余りであったので、さほどの効果が無かったということなのでしょう。
また、より根本的な問題点として、この方針というのが基本的に西洋諸国の強さの本質がただ兵器の優秀さにあるという誤解に基づいている点がありました。西洋諸国の強さ、そして危険さの本質はただ兵器の優秀さにのみあるのではなく、その背景にある西洋文明そのものにあるのです。この10余年の間、幕閣はそれに気づかなかったか、あるいは気づいてもそこに踏み込んでいく勇気を持たなかったのです。その程度の努力であったゆえに、西洋諸国に追いつくことなど到底無理だったのでした。
何故、このように幕閣は肝心のところに踏み込んでゆくことが出来なかったのかというと、先述のような外国への嫌悪感もありましたが、この後述べる天保の改革の失敗によって、結果的に幕府内で保守派の勢力が強くなってしまい、思い切った政策が打ち出せなくなってしまったということが一番大きな原因ということになるでしょう。

このように、結果的に失敗に終わった故に、この先延ばし方針は全くの失敗で、10余年の稼いだ時間は全くの無駄であり、さっさと開国しておけば良かったという意見も出てくることにもなるのですが、果たして本当にこの間の努力は全くの無駄であったのかというと、決してそんなことはないでしょう。
アヘン戦争直後の時点でもし開国していても、おそらく南京条約並みの不平等条約を強要されたであろうし、ことによると後のアロー戦争時の天津条約のように外国商人の居留地外での商売も認めさせられるような内容のものになったかもしれません。
実はこれが植民地化への重要な第一歩であり、清国はアロー戦争に敗れたためにこの条件を呑まされ、実質的な植民地化へ踏み込んでいくことになるのですが、アヘン戦争直後の弱体の日本であれば、ここまで一気に踏み込んだ条約になった可能性があります。

そこまで行かなかったとしても、当時の日本は天保大飢饉の混乱もまだ収束しきっておらず、世直し一揆や大塩の兵乱の影響もまだ残っており、弛緩しきった大御所時代の政治のお陰で幕府も各藩も財政は破綻しており国内はバラバラな状態でした。しかもこの後、急進的な天保の改革によって国内は大混乱に陥るのです。
そういう状態の時に西洋諸国と通商を開始していればどうなるのか。おそらく国内の統一のとれていない日本を恐れることなく西洋諸国は気軽に戦争を仕掛けて、更なる有利な条件の条約を結ばせようとしてくるでしょう。そうなれば、もし最初は南京条約並みの条約であったとしても、すぐに天津条約並みの条約を結ばされることになり、植民地化に踏み込んでいったことでしょう。
実際、清国も1856年にアロー戦争を英仏に仕掛けられたのは、1850年から始まった太平天国の乱で国内が大混乱に陥り、国家が一丸となって外国に立ち向かうことがないであろうと英仏に見透かされたからなのであり、その結果、植民地化への道を歩み始めたのです。
一方、実際の日本の歴史においては、1854年に開国し、1858年に南京条約並みの不平等条約を結ばされはしたものの、その後は外国によって戦争を仕掛けられることはなく、その結果、外国商人の居留地外での活動容認という、植民地化への第一歩を踏み出さずに済んだのでした。それは、開国後の日本が国内が一丸となっているように外国人には見えたからであり、そういう厄介な相手に安易に戦争をふっかけることを諸外国が自制したからなのです。

つまり、アヘン戦争後の10余年の間、のらりくらりと開国を先延ばししながら最低限の防備態勢を整えつつ、国内の混乱を抑えて、尊王思想の普及や、幕府や藩の間での意識の共有や、外国に関する知識の共有などを進め、国内の一体化を進めておく、つまりナショナリズムの気運を高める期間として、この猶予期間は決して無駄ではなかったということなのです。実際、アヘン戦争をきっかけに日本国内でナショナリズムの気運が強く国内で動き始めることになるのです。
もちろん、文化や経済、情報網などの一体化という、江戸時代の歴史において積み上げてきた財産がもともと存在したからこそ、それも功を奏したわけなのですが、西洋諸国という相手を意識した上で国内を固めておくという期間を最終的に10年ほど稼ぐことが出来たのは、想像する以上に重要なのだといえると思います。
それに、ペリー来航時にはあまり役に立たなかった洋式軍備にしても、その10余年の基礎的知識の蓄積があったからこそ、開国後の軍制改革もスムーズに行われたのであるし、それも幕府だけでなく他の多くの藩でも同様の軍制改革の下地が作られていたことによって、外国に対しての抑止力にもなり、また、維新回転の原動力ともなっていったのです。そういう意味でもこの猶予期間は全く無駄ではなかったわけです。

後知恵で理想論を言えば、18世紀終盤の田沼時代あたりから段階的に開国して、段階的に中央集権化を進めつつ軍備も整えていくのがベストであったろうとは思いますが、寛政の改革以降の反動政治を無駄に長く継続して時間を無駄に浪費した以上は、このアヘン戦争の段階では、この先延ばし方針が一番ましな対応であったと思います。
ここで水野忠邦をはじめとした幕府首脳が、こういうベターな対応をとったお陰で、日本は植民地化という最悪のシナリオを迎えずに済んだのだといえます。そして同時に、ここでベストの対応を取る時期を既に逸していたということが、後に幕末の混乱を招き、幕府倒壊を迎える原因となるのですが、それはもう、幕末の為政者やこの天保期の為政者らの責任というよりは、むしろ松平定信や徳川家斉らの責任のほうが重いといえるでしょう。
しかし、それもまた、彼らの時代において西洋諸国のこれほどの強大化や凶暴化を正確に予測するのも困難であったでありましょうし、結局、人間はそれぞれの時代においてそれぞれが与えられた環境の中で、それぞれ最善の選択をしていくしかないということなのでしょう。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。